水底の月 : the Rainy Blue


第一話 陽溜まりの中で



0.

「ごきげんよう、紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)
 私は突然の掛け声に思わず立ち止まった。
 振り向く。
 視線の先には期待とほんの少しの怖れがこもった同じ学年の少女たちが三人ほど私を見ていた。
「あ、えっと」
 言葉が出ない。
 彼女たちとの接点はなかったはず。
 きょとんとした表情の裏側で、私は必死に彼女たちの顔を思いだそうとしていた。
「どうかしました? 紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)?」「あぁ・・・」
 反応がない私に少女たちの一人が問いかける。その問いに私はようやく答えを見つけ出して、慌てて首を振った。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと呼びかけが私のことだって気がつかなかっただけ」
 へらっと笑う。そして、私は表情を引き締めるとぺこりと頭を下げた。
「ごきげんよう、皆様」
 安心したように笑顔で会釈をして、彼女たちが立ち去る。
 私は頭を起こした。首下にかかるロザリオの重みがさりげなく自己主張する。
 晩秋の頃も過ぎ、季節は冬の気配を漂わせている。
 そう、私、福沢祐巳は紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)になっていた。


1.

 訪れたのは白い個室。
 そこは彼女の激しさと、それに似合わない華奢な身体を閉じ込めた白い白い牢獄だった。
 福沢祐巳は病室の部屋にかけられた札を確認して、ノックする。
「どうぞ」「お邪魔します」
 ぺこりと頭を下げてドアを通り抜ける。
 閉まる扉の音が祐巳の耳に大きく響く。それは多分、世界とこの小部屋を断絶する音だからだろう。
 窓辺に置かれたベッドに彼女は身を起こしていた。
「いらっしゃい、祐巳さん」
 挑むように祐巳を見上げる。肉付きの薄い肩。寝巻きの間から覗く鎖骨が、彼女の華奢な体つきを感じさせる。
 しかし、まっすぐに祐巳を見つめるその黒い瞳に宿る影が、彼女の意志の炎をいっそう引きたてていた。
「由乃さん、ごきげんよう。身体の具合はどう?」
 祐巳はからりとした笑顔で問いかける。そんな祐巳を彼女、島津吉乃は一瞥すると鼻で笑って見せた。
「つまらない芝居は結構よ、祐巳さん。私はあなたの本音と話したいの」「?」
 祐巳は訝しげに首を傾げた。
 正直、由乃さんにそこまで言われるほど親しく付き合った憶えはない。最近は剥がれかけてきているメッキも、ちょっとやそっとでは剥がれない自信があった。
 でも、ベッドに上半身を起こした由乃さんはそんな祐巳の仕草を鼻で笑った。
「私ね、これでも用心深い性なの。だから、祐巳さんが祥子さまの(プティ・スール)に、ううん、薔薇の館に来るようになってから、ずっと祐巳さんのこと見てた。だからね、いいの。
 私はあなたのその薄っぺらな笑いの奥の、鋭いカケラに傷付きたい」「・・・そうなんだ」
 すとんと自分の奥に打ち捨てた心を透かし見るように祐巳は由乃さんを見つめる。由乃さんは身震いすると、にやりと不敵な笑みを浮かべて見せた。
「これでやっとお互い本音で話せるわね。そう。祐巳さんを見込んでお願いがあるの」

 祐巳は由乃さんの言葉に静かに耳を傾けた。『黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)』のこと、由乃さんの心臓のこと、手術のこと。
「なぜ、わたしなの?」
 祐巳は尋ねる。
 わからない。由乃さんがそんな大切なことをなぜ私に託すのか。
 祐巳にはぜんぜんわからなかった。
 そんな祐巳の困惑を由乃さんが仕方がないなぁと目元を和らげて笑った。
「友達でしょ、私たち。少なくとも私はあなたの親友と呼べる存在になりたいと思ってる。
 だから、祐巳さんになら、きっとどんなことになっても私の願いを託せると思うから」
 大丈夫だと思うけどね。
 そう笑う由乃さんは、自分が死ぬかもしれない可能性を見つめていた。
 祐巳は叫びたかった。
 私はそんなに強い人間じゃない。
 由乃さんみたいに自分が死ぬかもしれない可能性を付きつけられて、ただひとり、大切な令さまにも言わずに手術を受けるなんてこと。私の中で抱え込んでいられるほど、強くない。
「買いかぶりだよ」
 祐巳はぽつりと呟く。
「そうかしら。私の人物鑑定力も捨てたものじゃないわよ」

 祐巳は剣道場を見下ろす席で左手首を翻してちらりと腕時計に視線を落とした。もう由乃さんの手術が始まった頃だ。
「だから、祐巳さんに見てきて欲しいの」
 脳裏に由乃さんの言葉が浮かぶ。
 でも、落ち着かない。
 付き合いのまだ浅い自分ですらこの調子なのだ。もし、令さまが手術のことを聞いていたら、きっと試合にならない。だから、令さまに伝えないのは仕方がないのだろう。
 でも、そもそも、令さまの試合の日と手術の日を合わせなくても良いのに。
「祐巳、なにをきょろきょろしているの?」
 そんな祐巳の落ち着かない様子を見とがめたのか、祐巳の(グラン・スール)、小笠原祥子さまが躾けるように告げる。
「はい。すみません、祥子さま」「・・・」
 ちょっと祥子さまが眉を顰めた。なにか、気に染まないことを言っただろうか。
「くすくす。祐巳ちゃん、祥子はね「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)!」、おおっと、怖い怖い」
 口を挟もうとする白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を祥子さまが睨みつける。祐巳が問いかけようとしたそのとき、リリアン側の席からひときわ大きな歓声が上がった。祐巳は慌てて剣道場を振りかえる。
 黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)、支倉令さまの登場だった。

 試合が終わった。
 会場内は未だ興奮と熱気が覚めやらぬ面持ちで喋る少女たちの声が響く。
 祐巳は試合の興奮をしっかりと心に留めると、傍らの姉を見上げた。
「あの・・・」「なにかしら、祐巳?」
 人ごみに耐えるように口元をハンカチで押さえた祥子さまが首をかしげた。祐巳はそんな祥子さまをまっすぐに見上げた。
黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)に、由乃さんのことで今すぐお伝えしなければならないことがあるんです」
「・・・そう、お姉さまにお話をしましょう」
 迷うことなく祥子さまがすっと立ちあがる。
「祐巳ちゃん、私にもお願いない?」
 じゃれつくように白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が祐巳に抱きつこうとして、祥子さまが祐巳をかばうように抱き寄せた。
 どきりとする。
白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は志摩子の手伝いをされてはいかがですか」
「今は祐巳ちゃんが優先かなぁ」「・・・」「はぁ」
 祥子さまが大きくため息を付いた。
「祐巳、どうして、令に急ぎの用事があるの?」
 祐巳は迷う。
 それは祐巳が由乃さんからお願いされた大切な話。これまでの祐巳であれば迷うまでもなく、ひとりで決断していたことを。
 でも、祐巳は頼ってみようと思った。
「実は・・・」

「由乃の手術が今日!」
 掴みかからんばかりの剣幕で令さまが祐巳に迫る。
「ちょっと、令。落ちつきなさい」
 立ちすくむ祐巳と令さまの間に祥子さまが入った。
「あなたがそんな調子だから、由乃ちゃんに愛想尽かれてしまうのよ」「え、由乃が・・・」
「しっかりなさい!」
 祥子さまが叱咤する。ああ、なにかそろそろ切れそうな気配が。
 祐巳は祥子さまの影から一歩踏みだした。そして、青ざめた顔で不安げにおろおろする令さまを見つめる。
「由乃さんは令さまに愛想を尽かせてなんていないと思います」「ああ、そうだよね。うん」「でも、ただ、令さまに庇護される立場ではいたくないんです。そのために、踏みだした一歩がロザリオを返すことであり、今回の手術なんだと思います。
 令さまは由乃さんの勇気を、お認めにならないのですか?」
 うろたえる。令さまに言った言葉。それはきっと祐巳自身にも当てはまることだ。
 いつか、祐巳も踏みださなければならない。
 庇護される立場から、震える脚を踏み出して。
 そんな祐巳の肩に優しく手が置かれた。
「令、あなたが今するべきことはこんなところでおろおろすることじゃないでしょう?
 お姉さまが車を呼んでくださっているから、急いで着替えて」「ええ、わかったわ」
 成すべきことを理解した令さまの行動は早い。
 慌ただしく動く事態に祐巳はそっとため息を一つつく。
「さぁ、祐巳。私たちも急ぎましょう」「はい」
 祐巳を誘う声。祐巳は祥子さまを見上げて肯いた。

 見上げる病室の窓辺に映る人影。その空気の柔らかさに祐巳は小さく安堵の息をついた。いろいろなことがあったけど、きっとあの二人は大丈夫だとわかる。
 祐巳は思う。
 私もいつか由乃さんのように踏みだす日が来るのだろうか。
 ひとりで、踏み出せるのだろうか。
「祐巳、帰りましょう」
 掛けられた声に全身で振りかえる。
「はい、祥子さま」「・・・」
 なぜか呆れたような眼差しで見つめられる。祐巳はなにかいけないことを言ったのだろうか、と頭を巡らす。
「もう、あなたって娘は・・・」
 拗ねたようにぷいと顔を逸らして祥子さまが病院の玄関から続く小道を進む。
「あのぉ?」
「私、決めたの。あなたからちゃんと『お姉さま』と呼ばれない限り返事をしないって」「え?」
 ・・・。
 祐巳は思い起こす。そう言えば返事をするたびに祥子さまが奇妙な顔をしていたのは、このためだったのだろうか。
 とりあえずは練習と、心の中で呼びかけてみる。
 お姉さま。
 駄目だ。顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。
 ぶんぶんと頭を左右に振る。
 これはきっとアレだ。意識するから駄目なんだ。
 自然に、意識しないぐらいに、普通に。
 それは初めからあった絆のように。
 祐巳は熱くなりすぎた頭を冷やそうと空を仰いだ。晩秋の空気が涼しい。そして、振り返る。視線の先には先ほどの病室が見える。
「私もいつか・・・」「どうしたの、祐巳?」
 自然と漏れた言葉に祥子・・・・お姉さまが振りかえった。
「いえ、その・・・。私もいつか由乃さんみたいに踏みだせるかなって」
 ああ、祥子さまが馬鹿の子を見たような目で!
「祐巳、あなたはそれ以前に守られることを、甘えることを学ぶべきだわ。そんな言葉はちゃんと私に甘えられるようになってからおっしゃい」
「あ・・・」
 すとんと何かが収まるような感じ。
 祐巳はぼうっと祥子さまを見上げた。祥子さまが慌てて顔を背けた。祐巳は頬が緩むのを止められなかった。
 今なら、自然に言える。
「行くわよ、祐巳」
 足早に急ぐ祥子さまに祐巳は答えた。
「・・・はい。はい、お姉さま」
 慌てて追いつく。一歩先を行くお姉さまの後ろを、今はこのまま追いかけてゆこうと、祐巳は思った。


2.

 違う。
 福沢祐巳は読み終えた文庫本を閉じた。
 この本の著者は白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)じゃない。
 奇妙な感慨と共に祐巳はベッドの上で文庫本を片手に膝を抱える。
 それは今、白薔薇さまが書いたんじゃないかと言われている小説だ。
 悲しい物語だった。
 でも、涙は流れない。
 祐巳にはわからなかったから。分かたれることに痛みを感じるほど互いを思う気持ちが、そして、その痛みを疎とう気持ちがわからなかった。
 切り離された心が血を流すのは、それだけ、思う相手が大切だからなのではないのだろうか。
 哀しむべきなのは、むしろ、癒されてしまうこと。
 分かち難い半身を失って、それが、初めからそうであったかのように喪失感を抱きながら、当たり前になってしまうこと。その方がむしろ哀しい。
 祐巳が白薔薇さまを好きになれないのは、祐巳自身の癒されようとする心のかさぶたが疼くからなのだろうか。
 でも、違う。
 この物語りは癒されてしまった人の話だ。
 未だ癒えぬ自らの傷跡を愛おしく触れる白薔薇さまの物語ではない。
 だから、調べてみようと思った。
 この物語を書いた人に会って見たいと思ったのだった。
 祐巳は窓から空を眺める。
 この人は癒されてしまった自分のことをどう思っているのだろう。自分もいずれこうして全てを想い出に、語れるようになってしまうのだろうか。
 その答えを聞くことが少し怖かった。

 白薔薇さまが話し終える。佐藤聖と久保栞、二人の物語の終わりを。
 静けさが教室を支配する。
 重苦しい沈黙でなく、相手を待つ静かな時間。
 祐巳はそっと目を閉じ、窓の外から流れてくる放課後のざわめきにその身を浸した。
「白薔薇さまは、どうしてそれを私たちに?」
 由乃さんが尋ねた。
 白薔薇さまが笑う。
「そうだね。誰かに聞いて欲しかった。そんな気分だったから、かな」
 はかない微笑みを浮かべた白薔薇さまに、でも、思わず、皮肉な気分に捕われて祐巳は尋ねた。
「そうして、埋葬してしまわれるおつもりなんですか?」
「それは違う」「祐巳さん」
 白薔薇さまが首を振る。袖を引いて止めようとする由乃さんに構わず、祐巳は言葉を吐いた。
「栞さまを過去の人にして。時間で埋め尽くして、忘れてしまうおつもりなんですね」
「違う!」
 叩きつける痛みを伴うほどの強さを持った言葉。
「これは埋葬なんかじゃない。溢れかえっていた心が時と共に少しずつ理解できるようになってきたんだ」
「うそ」
「嘘じゃない。あの時の私は本当に一杯一杯で何も理解していなかった。ひとりで突っ走って、しおりのことも、お姉さまのことも、そして・・・、周りの人たちの思いも、全然わかってなかった。
 ええ、今になってようやく理解できる。
 私がどれほど守られていたのか。大切に思われていたのか。
 祐巳ちゃん、私はそれを受け入れられるようになったの」
 自分の胸に手を当てて大切なものがそこにあるように白薔薇さまが告げる。
 わからない。
 反駁しようとして祐巳はちいさく首を振った。
 違う。わからないんじゃない。
 浮かび上がる心の真実を埋葬しようと、振り上げた言葉の鎚が止まる。
 違う。
 祐巳はわかりたくなかったんだ。
 助けの手はあった。
 蔦子さんはいつも守ってくれていた。
 桂さんはいつも手を引いてくれていた。
 祐麒はいつも心配そうだった。
 クラスのみんなも傷口に当てられた柔らかな綿のように優しくて。
 その全てに背を向けていたのは、祐巳自身だった。
「あなたと私は、全然似てなんかいない」
 祐巳は顔を背けて呟いた。
 激高した祐巳に由乃さんが気づかわしげな視線を向けているのを感じる。
 感じる。
 大切な人たちの想い。
「うん」
 白薔薇さまが短く応えた。
 優しい応え。その祐巳に向ける柔らかな表情までもが想像できて、祐巳は反発せずにはいられなかった。
「私はあなたのことなんて、好きじゃない」
 でも、その言葉も力無くて。
「うん」
「だから、私は・・・」
 祐巳の言葉が途切れる。
 白薔薇さまの応えに祐巳は自分の中の真実を探す。届く言葉を、伝えたい心を、探す。
「だけど、私は、あなたのことを知りたいと思った」
「・・・うん」
 よくできました。
 そんな言葉が伝わってくるような白薔薇さまの笑顔に、祐巳はなぜか赤面する自分に耐えられなくてそっぽをむいた。

 その人の背を見送った祐巳はひとり静かに佇んでいた。
 不思議な事だと思う。
 この騒ぎがなければ、互いの死を信じていたあの方たちに再びの出会いはなかっただろう。
 でも、ここに再会はなった。
 多分、聖さまと栞さまも、いつか・・・。
 私たちの日々は踊りのようで。出会い、手を伸ばし、踊り、別れる。見つめ合い、寄り添い、回る、回る。
 祐巳もおぼつかない脚で踊っている。壁の華と、ホールをまぶしく見つめていた時は終わり、寄り添い、時に、ステップを間違えて、脚を踏み、踏まれて。
 くるくると。
 ああ。眩暈がしそうだった。
「祐巳、こんなところにいたの」
 穏やかな、でも、ちょっと慌てたような声が祐巳を現実に引き留めた。
 振りかえる。
 マリア像の傍で祥子さまが見つめていた。
「あの?」「あなたが遅いから、探しに来たの。薔薇の館に戻りましょう」
 そっと手を伸ばし、祐巳のタイを整える。その手の感触に祐巳ははっとこの場にいた理由を思いだした。
「でも、蔦子さんがまだ」「彼女なら嬉々として薔薇の館に来たわよ。だから、あとはあなただけ」
 さすが、蔦子さん。
 祐巳は自分の親友の嗅覚に怖れすら感じた。
 夕暮れの中、祐巳は凛々しい姉の姿を見上げる。
 私もいつか、この人と別れる時が来るのだろうか。
 この繋がれた手を離す日が来るのだろうか。
「これを」
 ぼうっとしていた祐巳の手に包みが渡された。
「これは?」「クリスマス・プレゼントよ」
「ええっ!」
 いきなり、姉妹の危機ですよ。
 慌てる祐巳を祥子さまが笑う。
「いいのよ。私が贈りたいだけなのだから。
 でも、どうしても、というのなら」
 祥子さまの手が伸びる。その美しい指先が祐巳の頬を撫で、その先の、祐巳の髪を優しく梳いた。
「これを替わりにいただこうかしら」
 するりと衣が擦れる音がして、祐巳の髪がさっと広がった。首筋に触れるこそばゆい感触。
 あっと思う間に、祥子さまの手には祐巳の髪を纏めていた黒いリボンがあった。
「いいかしら?」
 戸惑うような、どこか自信のない問いかけに、祐巳は祥子さまの、お姉さまの心を思う。
 ああ、この人もきっと不安なんだ。
 祐巳はぱっと笑顔を浮かべた。
「はい、お姉さま!」
 満足げに肯く祥子さまの少し誇らしげな表情をきっと忘れないと、この時、祐巳は思った。


3.

「何かお探しかしら?」
 福沢祐巳は掛けられた声に振りかえった。
「静さま」「ごきげんよう、紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)
 祐巳の驚いた表情をくすりと笑う。祐巳は薔薇さまがたや蕾たちとは違った方向で艶やかな人だと、声を掛けてきた蟹名静さまを見て思う。
「どうしてこちらへ?」
 意外な人の姿に祐巳は動揺して問いかける。それが面白かったのだろう。場所柄をわきまえて口元を被いながらも楽しそうに静さまが笑った。
「あら、祐巳さんこそあまり図書館に来ないでしょう?」「あ・・・」
 言われて気がつく。そうだ。むしろ、静さまの方が図書館の常連なのかもしれない。
「それに、ほら」
 静さまが腕に巻いている腕章を指差す。
「私、図書委員なの」「ああ、なるほど」
 納得。祐巳は自分が普段いかに図書館を利用していないのか指摘されたような気がして赤面する。
「それで、何かお探し?」
 なぜか楽しそうに尋ねる静さまに首を傾げながら、祐巳は応えた。
「はい。薔薇の図鑑を」「図鑑を?」
 意外そうに静さまが目を丸くする。祐巳は小首をかしげた。
「ええ。そうですけど?」「・・・」
 何を驚いているのだろう。
 静さまの姿に内心見切りをつけて祐巳はどのあたりを探せばいいのかと、辺りを見まわす。なぜか、時折、図書委員らしき少女の敵意の満ちた目にぶつかるが、そっと笑顔でかわす。相手はばつが悪そうに目を落としているのが、かなり謎だったが。
「そう。薔薇の図鑑をね」
 静さまが苦笑と共にすぐ近くの図書委員に声を掛けて後を頼む。
「植物図鑑ならこっちよ」「あ、はい」
 静さまが後を頼んだ少女に感謝をこめて頭を下げると、祐巳は先導する静さまを追った。
「でも、どうして薔薇を?」「はい。私、紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)なんて呼ばれていますけど、実際の薔薇を知らないんです。ですから、これを機に、ちょっと調べてみようと思って」「そう」
 静さまが本棚から数冊の図鑑を引きぬいて祐巳に渡した。
「薔薇を見るなら、これなんかいいんじゃないかしら」
「ありがとうございます」
 祐巳はぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。それじゃあね」「あ、静さま」
 立ち去ろうとするその姿を呼びとめる。
「なに?」
「静さまはロサ・カニーナがどんな薔薇か、ご存知ですか?」
 なぜか静さまが脚を止める。そして、祐巳の姿を見て肩の力を抜いて笑うと、答えた。
「黒薔薇のことよ」「へぇ」
 祐巳は博識な静さまをちょっと尊敬の眼差しで見上げた。静さまが苦笑した。
「こういうのを天然って言うんでしょうね」「へ?」
 静さまがなんでもないと首を振る。
 由乃さんに今話題のロサ・カニーナが蟹名静さまのことだと教えられたのは、その直後のことだった。

「祐巳さんはなにも言わないのね」
「は?」
 ぽつりと志摩子さんが呟いた。祐巳は唇に人差し指を当てて上を向いて考える。
「ああ、薔薇さまの選挙のこと?」「ええ」
 ぽんと手を叩く。そんな祐巳の姿に志摩子さんが少し目を見張った。
 別に関心がないわけではなかった。志摩子さんの悩みは、来年、祐巳自身が迎えるものでもある。
 でも、と、祐巳は思う。
 決定的に違うのは、志摩子さんと祐巳に向けられる期待の差だ。
 祐巳が来年選挙に立候補しなくても、不審がる生徒はいないだろう。きっと労いの視線を向けて、祐巳には薔薇さまの立場は重すぎたんだと誰もが納得するに違いない。
 でも、志摩子さんは違う。
 誰からも薔薇さまであることを求められている。
 まだ、祐巳と同じ一年生の少女は祐巳と違う期待という名の十字架に掛けられようとしていた。
 祐巳には志摩子さんの苦しみはわからない。それは、空を舞う鳥が、自らの来し方・行く方を迷うようなものだから。地べたを駆けずる野生の狸は、ただ羨望を持って見上げるしかない。
 だから、それは、ちょっとしたいやがらせのつもりだった。
 祐巳は志摩子の両手を取る。
「どこにも行かないでね」「祐巳さん・・・」
 驚いたように志摩子さんが祐巳を見上げる。その無垢に見上げる瞳にくらりと来た。
 そう。いやがらせのつもりだったのだ。
 祐巳には志摩子さんの苦しみはわからない。でも、志摩子さんが苦しんで、悩んでいることはわかる。投げだしてしまいたいと考えていることもわかる。
 それでも。
「私は志摩子さんと一緒にリリアンの三年間を過ごしたいよ。もしかして、薔薇さまにはならなくても。
 だから、どこにも行かないで。志摩子さんがいない学校は、きっと寂しいよ」
 自分で呟いて驚く。これはわがままだ。祐巳はそこまで言うつもりはなかったのに。
「はいはい。麗しい友情はわかったから。福沢さん、席につきなさい」
 ぎょっとした。
 すでにHRの時間になっていた。立ちあがって志摩子さんの手を取る祐巳の姿はクラスの注目の的だった。
 先生の声に赤面しながら、祐巳は慌てて自分の席に戻る。
 く。蔦子さんまで笑ってる。
 火照る頬を押さえ、祐巳はちらりと志摩子さんを振りかえる。志摩子さんの口が動いた。
 囁かれたありがとうの言葉に、胸がちくりと痛んだ。

 あの人が志摩子さんに告げる。
「これはあくまであなたが決めたこと。だから、当選したら最後まで責任を持ちなさいね」
 厳しい言葉だと思う。
 責任を持つ。それは重荷を背負う行為だ。でも、いつも、どこかに飛び立ってしまいそうな志摩子さんには、必要な重みなのかも知れない。
 天高く飛ぶ鳥は青空の美しさを歌うことができる。いつでも、どこにでも、旅立つことができる。
 でも、高みを飛ぶ鳥も、いつまでも飛びつづけることはできない。飛ぶことを学ぶ雛鳥が最初に学ぶのは地面に落ちることだ。雛鳥たちは飛ぶよりも落ちると表現したほうがいいやり方で学んでいく。自らの力足りなさと迫る地面に降り立つ術を。
 志摩子さんの翼は逃避にも似て、飛び立ったら二度と降り立つことはない。
 翼を休めることも知らず。
 志摩子さんの一途さは飛ぶことにばかり目を向けて、生きる事を忘れてしまったようだ。
 でも、祐巳は思うのだ。
 それは寂しいことなんじゃないだろうか。たったひとりの空を孤独で鎧い、どんな枝にも止まることができずにいる。
 そう。かつての祐巳のように。
 祐巳はなにも知らない。
 志摩子さんの事情も抱える悩みも。
 それでも。なにもできなくても。
 祐巳は思うのだ。
 一緒にいたい、ね。


4.

 私は笑っているのだろうか。
 私は笑えているだろうか。
 蔦子さんの写真に写る私の表情はいつも滑稽で、下手な役者が必死に三文芝居をこなそうとしているようにすら見える。
「祐巳さんの生の表情はいつも魅力的よ」
 蔦子さんはそう言って写真の一つ一つを楽しげに説明してくれる。
 祐巳は思うのだ。
 そんな蔦子さんの姿こそ魅力的だと。
「うーん、憶えがないなぁ。こちらは三年の内藤克美さまだよね」
 祐巳は写真を前に首をかしげた。いつもお世話になっている蔦子さんの手助けができれば、そう思っては見たものの、蔦子さんが聞きたい女生徒のことは全然思いだせない。幼さも感じられる姿からすると、同学年かと思うのだけど。
「あら、わかるの?」「それなりに、有名人だし」
 苦笑する。
「二人とも柔らかな雰囲気で笑ってるんだね」「そうね」
 蔦子さんが含みのある様子で同意する。祐巳はそんな親友の姿に微笑んだ。
 こうして、蔦子さんにも大切な人が、気になる人が増えていく。でも、これで私と蔦子さんとの縁が薄れていくわけじゃない。
 きっと、これは次の結びつき、新しい関係への過程なんだ。
 祐巳はそっと蔦子さんに微笑んだ。
「協力するね」「え?」
 蔦子さんが慌てて祐巳を見上げる。
「この娘を見つけるの手伝うから」
 正面から、しっかりと。
 祐巳は蔦子さんにからりと晴れあがる青空のような笑顔を浮かべて肯いた。
「え・・・。う、うん」
 ん?
 蔦子さんにしては歯切れの悪い、はにかむような返事だった。

 それは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の想いから始まったことだった。
 薔薇の館に一般の生徒が集まる姿が見たい。
 当の紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)自身は受験の日と言う事もあって、この光景を見ることができないかもしれないけど、それでも、これは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の夢の形なんだと感じる。
 野生の機動力を駆使して、追いすがる紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)、お姉さまのファンを徹底的に撒く。中庭を駆けぬけた上ばきを丁寧に雑巾で拭きながら、祐巳はひとり首を傾げた。
 赤いカードの場所。
 祥子さまとの想い出の場所は、実はそれほど多くない。
 始めて出会ったのはマリア像の前。
 次に言葉を交わしたのは薔薇の館。
 そして、ロザリオを受け取った。
 祐巳は綺麗になった上ばきを履き直して歩く。
 私はあの人からどんな想いを託されているのだろう。
 お祖母ちゃんである水野蓉子さまの夢はいまここに。じゃあ、小笠原祥子さまの想いはどこに向っているのだろうか。
 歩く。
 それはきっと、受け継がれていく場所に。
 祐巳は思うのだ。あの薔薇のように美しい人は、とても不器用で、毅然と立つ自分の姿で持って、祐巳を導こうとしている。
 その凛とした背中は、とても、紅薔薇(ロサ・キネンシス)の名に相応しい。
 祐巳の足は自然と温室に向っていた。
 そこにはロサ・キネンシスが植えられている。祐巳はそれを祥子さまに教えてもらっていた。
 憶えておきなさい。
 そう言って微笑む姿を、祐巳は憶えている。

 手にはチョコレートの箱。
 赤と白。それぞれの色のリボンで閉じた二つの箱。
 白いリボンの包みは失敗作を積めた物で、とても、プレゼントとは呼べないものだけど。
 でも、これでいいんだ。
 私とあの人はきっと反面教師なんだと思う。
 互いの暗い影を相手に見て、届かない光を恋い願う。
 だから、渡すのはちゃんとしたチョコじゃない。失敗作の積めた箱で良い。あの人に渡すちゃんとした思いは、志摩子さんが作ってくれているから。それに満足しない人にはこのすごいチョコがお似合いだった。
 後片付けをして、お姉さまを待つ。
 結局、赤いカードは見つからず終いで、温室で出会った上級生も名乗り出てこなかった。
 きっとあの上級生がカードを見つけていたんじゃないかと今になって祐巳は思う。でも、祐巳の姿に言い出せなかったんじゃないだろうか。そして、なかったと言ってしまった以上、名乗り出ることもできず、気まずい思いをさせてしまったのではないかと、申し訳なく思うのだ。
 それでも、誰も名乗り出なくて良かった、と、ほっとした祐巳もいるのも事実で。
「祐巳」「うぎゃ!」
 だから、突然声を掛けられて、はしたない叫び声をあげてしまったのも、いたしかたがないと思うのだ。
 そして、散らばってしまったチョコを一つ、摘んで当たりだと言ってもらえたことが嬉しかった。
 本当に、嬉しかったのだ。


5.

 私はきっと伽藍堂。作り物の笑顔と何も考えていないおつむの薄っぺらな人間で。
 誰も見ず、何にも目を向けず。
 何もいないところに膝を抱えて、ひたすら自分を守りつづけていた。
 だから、信じられなかった。
「私は誰よりも貴方のことを買っている」「嘘・・・」
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の、ううん、今はもう、水野蓉子さまと呼んだほうがいいのかもしれない、の言葉を祐巳は一言で斬って捨てる。
 あなたは誰よりも一番、私のことを怖れていた。
 祐巳は続けようとして、微笑む蓉子さまに言葉を失った。
「ほんとよ。聖は論外だけど、江利子と私、妹たち。多分、その中で私が一番、あなたを評価してる。祥子の一番の姉孝行はあなたを妹にしたことだとおもってるわ」
 信じられない?
 いたずらっぽい表情で蓉子さまが視線で問いかける。
 わからない。
 どうしてそんな風に私に微笑むことができるのか。
 あなたから大切な妹を奪い、おそらく傷つける。そんな私を、あなたはきっと遠ざけたいと願っていたに違いない。
 それなのに、なぜ、私に手を伸ばすの?
 祐巳は視線を落とす。
 手元には微妙に桜色のホットミルクinいちご牛乳。その少しばかりのいやがらせに蓉子さまを思う。
「わたしはそんな凄い人間なんかじゃありません」
「そうかしら」
 蓉子さまが首を傾げて自分のホットミルクにいちご牛乳を混ぜてすすって見せた。わずかに顔をしかめる。
「確かにあまり良いものではないわね」「だったら、なぜ?」
 あえて取り違えた祐巳の問いに、蓉子さまが視線を落とした。
「そうねぇ。あえて言えば、見てみたかった、ってとこかしら」「それだけのことで!」
 祐巳も薄くピンクに染まるホットミルクを見つめる。
 蓉子さまは聡明な人だ。そう、思っていた。状況に対処できる賢明さに留まらない。もっと先を見てとれる人だと思っていたのに。
 祐巳の憤りに、でも、蓉子さまはなぜか笑顔で肯く。
「そう。
 あなたと祥子の幸せな未来を見てみたかった。
 それだけのことのために、私は祥子が傷ついてもいいと思ったわ。傷ついても、涙を流しても、幸せを掴めるだけの強さが祥子にあると信じたの」
 ガンと身体が揺さぶられるような衝撃だった。
 どれほどまでに厚い信頼なんだろう。
 蓉子さまはこれほどまでにお姉さまを信じている。その思いの強さに祐巳は思わず目を見開いた。
 そんな祐巳に蓉子さまの端正な面がまっすぐ見つめた。その信頼が祐巳にも注がれているように感じて身体が震える。
 怖い。
 私はあなたの信頼に足りる人間なんかじゃ・・・。
「だから、祐巳ちゃん」
 蓉子さまが告げる。
 それは甘い死を告げる誘惑の声のようだった。
「祥子をよろしくね」
 ああ。
 言葉が染みる。
 これはきっと、遺言なんだ。
 立ち去るものから、残されたもの達を想う言葉。
 その言葉の重みに祐巳は不安になった。
 大丈夫なんだろうか。
 私なんかで本当に大丈夫なんだろうか。

 薔薇の館に遅れてきた祐巳に、お姉さまは何も言わなかった。
 蓉子さまとお話をして遅れました。
 告げた祐巳にただ、そう、と肯いただけで。
 もしかしたら、お姉さまも同じ経験があったのかもしれない。
 伝えられる言葉。
 受け継ぐ想い。
 心の繋がりを背負って、私たちはつむがれる。蓉子さまのお姉さまから蓉子さま、蓉子さまからお姉さま、そして、私。
 織り糸は過去より果てなく、ときどきほつれては、絡み合う糸に支えられる。
 私も今、お姉さまから伸ばされた手を取って、未来へ行く端に立ったんだ。
 祐巳はふと興味を抱いて、由乃さんと志摩子さんに訊いた。由乃さんは、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)らしいやり取りだったけど、志摩子さんは小さく首を振る。
「ないわ」「へ?」
 きょとんとした祐巳を優しく志摩子さんが見つめた。
「でも、そうね。祐巳さんには残したい言葉があるんじゃないかしら」
「え? 私に?」「ええ・・・」
 混乱する。そんな祐巳を志摩子さんが暖かく笑った。それが実は志摩子さんのちょっとした悪戯だと気づいたのはずっと後のこと。
「祐巳さんはお姉さまにとってもう一人の妹のようなものだったから」「不出来な身ですから・・・」
 いろいろと世話になったような、ならなかったような。菜都美さまたちへの牽制はもっぱら蓉子さまが目を光らせていた気がする。
「あ、もしかして、志摩子さん怒ってる? わたしのせいで聖さまとゆっくりできなかったから」「ううん」
 慌てる祐巳に静かに志摩子さんが首を振った。
「私はお姉さまに姉らしいことを何ひとつさせてあげられなかったから。本当に祐巳さんには感謝しているのよ」
 志摩子さんがふるふると首を振る。
 祐巳は首を傾げる。この姉妹の繋がりは不思議だ。よそ様のお家事情に首を突っ込むのはよろしくないけど、少しだけ志摩子さんのために話を聞いてみようと、祐巳は思った。

 いつもより、少し早い放課後。
 薔薇の館の仕事を早めに切り上げた後、祐巳は夕暮れの校舎を歩いていた。
 きっと、聖さまはもういない。
 夕暮れの校舎をひとり、いるはずのない人を探す。
 祐巳はそんなおかしなシチュエーションに楽しみを感じていた。
 だから、その人の姿を、そこで見つけてしまったのはまったくの不意討ちだった。
「聖さま」「祐巳ちゃん、ごきげんよう」
「・・・ごきげんよう」
 三年の教室に独り、優しげに机を撫でる聖さまの姿に、祐巳の反応が遅れた。
 見られた、と思う。祐巳の醜い素顔を、感情のかけらも抜け落ちた死者の素顔を、見られたと、思った。
「祐巳ちゃん、気がついてる?」「へ?」
 慌てて問い返す祐巳に聖さまは手招きする。祐巳は聖さま以外誰もいない三年の教室に一礼をして、入った。
 教室の黒板に描かれた『ご卒業おめでとうございます』の文字ががらんとした教室に侘しく思う。
 誰も、彼も、明日、このリリアンを去る。
 祐巳はふと自分の中に沸いた感情に自嘲する。
 どうかしてる。
 このまま、時が止まれば、だなんて。
「ご卒業おめでとうございます」「ありがとう」
 ぺこりと頭を下げる。聖さまはなにごともなかったかのように肯いた。
「・・・」
 祐巳は言葉なく聖さまの横顔を見上げる。
 問いかけたいこと。聞きたいこと。
 いろいろとあった。
 でも、いま、すべてを受け止めたように静かにたたずむ聖さまを見て思ってしまったのだ。
 もう、いいや、って。
 それはとても悔しくて、受け入れがたいことだけど、一足先に自分を許すことができてしまった人を前に、祐巳にはなにも言うことなどできなかった。
 だから、心の中で、祐巳は呟く。
 ばいばい、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)
 祐巳は黒板に書かれた文字を振り返った。
 卒業しちゃえ。
「いろいろなことを知った。
 想いが大切な人を追い詰めることも、果たされる願いも、見つめることも、見つめられることも。
 そして、踏み出す勇気も」
 聖さまが祐巳に微笑む。なぜか照れくさくて、祐巳は居心地悪く身じろぎした。
「短い間だったけど。
 それでも私は、祐巳ちゃん、君と学生生活を一緒にできて、嬉しかったよ」
 それは夕暮れの、記憶。
 翌日にはオチまでついて、でも、それはきっと、とても大切な、愛しき日々。


6.

 卒業式。
 まだ少し空気は冷たく、温もりを手放すことにためらいを憶える季節に、福沢祐巳は最上級生を送りだす。
「祐巳」
 不意の呼びかけと共に、強く手を引かれた。祐巳の軽い身体は簡単に校舎の影へと引き寄せられてしまう。
「・・・菜都美さま」
 祐巳は顔をあげ、半ば予想していた人の姿を認めた。
 いつも明るくひょうひょうとしていた菜都美さまの顔に思いつめたような色が浮かんでいることに、祐巳は内心まずいかな、と思う。
 ええい、先手必勝。
 あえて祐巳は笑顔を浮かべて見せた。
「ご卒業、おめでとうございます」「あ・・・、うん」
 出鼻をくじかれたせいか、慌てた様子で菜都美さまは肯くと挙動不審な様子で周囲を気にしながら、祐巳に向き直った。
「あなたとちゃんと話しがしたかったの」
 その一言を発したことでふんぎりがついたのだろう。菜都美さまは祐巳をまっすぐ見据えた。
「あなたにはいろいろと迷惑をかけてしまったようだけど、私ね、この卒業を機にあなたとの関係をちゃんとやり直しーー「菜都美さま」」
 静かだが強い口調で祐巳は菜都美さまの言葉を遮った。驚いたように菜都美さまが祐巳の表情を見る。
 嫌だった。
 やり直そう。その言葉を聞くのが嫌だった。
 その一言で全てを否定されてしまう。
 この一年、自分はこのままずっと死に続けていくのだと信じていた毎日を。
 感じることに怯え、殻に篭りつづけていた。
 あげくのはてに、自分の力では頑固に作り上げてしまった殻を打ち壊すことができなくて、誰かに気がついて欲しいと力なく叩きつづけていたあの日々を。
 そして、ひび割れた殻の向こうに遥かに見た外の光を、冷たくも美しかったあの輝きを、もう一度、そう手を伸ばした僅かばかりの勇気を否定されるような気がして、聞きたくなかった。
 祐巳はなにも知らず、残酷な言葉を紡ごうとする菜都美さまを悲しげに見上げた。
「お願いです。私たちの思い出の日々を裏切らないで下さい」
 祐巳は菜都美さまの手を捕まえて、握る。互いの胸元に持ち上げ、しっかりと両手で手を繋いだ。
「いろんなことがありました」
 祐巳は自分の行動の虚しさに自嘲の笑みを浮かべる。でも、通じない。きっと届かない。
「それでも、この高等部での日々は、ただ後悔や悔恨だけではなかったはずです」
 菜都美さまが少し驚いたように目を見張った。それは、幼く怯えるだけだった祐巳の成長に気付いてくれたのだと思いたい。
「ですから、菜都美さまの思い出の日々を裏切らないで下さい」「祐巳・・・」
 菜都美さまは祐巳に柔らかな笑みを浮かべると、小さく頭を振って離れた。
「そうね。私のリリアンでの日々は、確かに楽しかったものね」「はい。菜都美さまは私の尊敬する先輩です」
 祐巳ははっきりと答えた。
 菜都美さまはうんと肯く。その表情が少し寂しげだった事には、あえて気がつかない振りをする。
「それじゃ、祐巳。あなたとは姉妹になれなかったけど、それでも、きっと私は楽しかった。
 祥子さんによろしくね」
「はい」
 立ち去るその人の背中を見送る。
白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)、もういいですよ」
 祐巳は何事もなかったように、すぐ傍の茂みに声をかけた。
 がさりと音を立てて、ショートの人影がよいっと声をかけて身を起こした。
「ほんとにいたんですね・・・」「え? もしかして、ブラフだったの?」
 驚きの声をあげる佐藤聖さまに祐巳はくすりと笑顔で答えた。聖さまは苦笑して前髪をかきあげる。
「カメラちゃんがね。写真を撮る準備ができたって、みんなで探してたんだ」「そうですか」
 祐巳は肯く。
 自分が菜都美さまに掴まった時、聖さまの姿をちらりと見かけたような気がしたことは言わない。
 それは、言う必要がないことだったから。
 きっといつでも出て来れるように、でも、できるだけ祐巳自身で解決するように、じっと待っていてくれたんだと、確信できる。
「祥子が切れそうだから、早く行こうか?」
 手が差し伸べられる。
 悔しいけどかっこいい、と少しだけ、そう、あくまでも少しだけと自分に言い聞かせて、思う。
「志摩子さんには内緒ですよ」
 祐巳はちょっとだけ意地悪な顔をして、手を繋いで歩き出す。聖さまはにやりと笑い返した。
「それは、こんなことかな」「ぎゃッ!!」
 抱きしめられる。
 その柔らかな温もりが気持ち悪かった。
 包まれている安心感に耐えられなくて吐き気がしていた。
 でも、今は素直に受け止めることができる。
 弱かったんだと、思う。
 ずっと、怯えていた。
 感じることに、想うことに、願うことに。
 幸せを憶えることに耐えられないほど弱かったんだ、と今になってわかる。
白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)! なにをしてるんですか!」「おお、怖い、怖い」
 祐巳の声を聞きつけたのか、マリア像の方からお姉さまの声が響く。
 軽くウィンクしてみせる聖さまに続いて、慌てて駆けだした。
 見上げるは黒い髪のマリアさま。
 そして、私を強引に救い出してくれた大切な人たち。
 祐巳は呟いた。
「さよなら。私の弱さ」
 春が来る。
 別れていくことは寂しいけど、心が離れていかなければ、再会はすぐにそれぞれの時を埋めてくれる。
 それに、きっと出会う。新しい仲間たちに。
 だから、今はさようなら。
 そして、生まれたばかりの私の心を守ってくれた優しい人たちに。
 ありがとう。
 抱きしめる暖かな想い。
 祐巳は彼女を待つ仲間たちの元に駆け出した。




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