水底の月


第六話 ・・・ 星の灯り



1.

 祐巳さんの様子が変だ。
 武嶋蔦子は福沢祐巳さんに悟られないようそっとその横顔を盗み見る。
 祐巳さんは他人の視線に目ざとい。ほら。今も蔦子の視線にこくんと首を横に傾ける。白薔薇さま曰く百面相で、どうかした、と問いかけていた。蔦子は慌てて首を振る。祐巳さんは変な蔦子さんとばかりに、納得いかない表情で黒板へと注意を戻した。
 その振る舞いにはいつもとの違いは見えない。
 でも、ふとした拍子にこぼれる、無機質な素顔。こわばる表情。
 まるで剥き身の心がさらけ出されるようで・・・。
 蔦子はそこまで考えて、止まった。
 これはもしかしていい傾向なのでは、ないだろうか。祐巳さんがありのままの自分で接しようとしている兆候なのではないだろうか。
 でも、その素顔はいままで祐巳さんを取り囲む人々にとって異質だ。きっと傷つく。
 ああ、それでも祐巳さんは、また笑うんだろうな。

 らしくない。
 小笠原祥子はいらいらする自分を優雅さの殻で隠して、新聞部のドアを閉めた。ここまで足を運んだのは、彼女の(プティ・スール)、いえ、紅薔薇のつぼみの妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)として騒がれている、福沢祐巳への取材をしないよう事情を説明するためだった。
 祥子としては変な横槍が入らないよう、自分ですべて片付けるつもりだったのだが、お姉さまがいくつかについては事前に話をつけてくれたようだった。だから、せめて祐巳を煩わせることはさっさと片をつけておきたかった。
 顔を上げる。とりあえず、ひとつ。これで祐巳は昼休みに新聞部から逃げて回らずに済む。野次馬については諦めてもらおう。
 くすりと祥子は笑みをこぼす。
 そうだ。祐巳はやがて自分の(プティ・スール)になるのだから、その時のための予習のようなものだ。
 祥子は少し愉快な気持ちになって薔薇の館へ向かおうと歩き始めた。奇妙なものだ。劇のことを考えると頭痛がしそうなほど不愉快だったというのに。
 なんとなしに顔を回し、気がついた。
 新聞部の隣の扉にかけられた札に書かれている文字に。
 祥子は迷う。しかし、それも束の間のこと。
 次の瞬間、祥子は初めからそのつもりだったかのようにその扉を、写真部と書かれた札のかかった扉をノックした。

2.

 祐巳の様子が変だ。
 福沢祐麒はいまだ下りてこない祐巳のドアをノックしながら思う。
 花寺の先輩、柏木優から祐巳がリリアンの生徒会、えっと山百合会だっけ、の演劇に参加すると聞いたときから悪い予感はしていた。
 祐巳は自分から目立つことをするタイプじゃない。いや、そうじゃないな。リリアン女学園の高等部になってから、埋没するよう努めてきたんだ。
 本当は学校を変えたほうがいいんじゃないかと思ってた。でも、祐巳は幼稚舎からのリリアン娘だ。親の事情で学校を変えるのでもない限り、逆に勘ぐられることにもなりかねない。
 もう一度、ノックをして声をかける。
「祐巳、入るぞ?」
 なんとなく後ろめたいような、でも、少しどきどきしながら祐麒はドアを開けた。
「祐巳?」「・・・ん?」
 暗い部屋。カーテンも開けずに、祐巳はベッドに座っていた。
「なに、祐麒?」「なにって・・・」
 祐麒はすでにリリアンの制服に着替えていた祐巳を見て口篭る。すでに朝早くにシャワーでも浴びたのだろう。かすかに石鹸と・・・化粧の香りがした。
「もう朝食べないと、遅れるぞ?」
「・・・あ、そんな時間なんだ」
 いまさらながらに気がついたように、のろのろと祐巳がベッドの頭においてある目覚まし時計を振り向いた。
「今日、私、朝はいいや」「祐巳?」
 華奢な身体をゆっくりとベッドから持ち上げる。机の上のかばんを重そうに両手で抱えると、祐巳は視線をあわせないよううつむき加減で祐麒の横を通り抜ける。
 その小さな肩。細い身体。
 祐麒は心配になって声をかけた。
「今日は休んだほうがいいんじゃないか?」
 祐巳が振り返る。間近に見るその柔らか表情に、どきりとした。
「駄目だよ。今日は花寺の柏木さんも見えるんだから。私が休んだら、きっと迷惑をかけちゃう」「そっか」
 どぎまぎする心臓を抑えるためにそっぽを向く。
「祐麒、ありがとね」「ああ」
 ゆっくりと階段を降りる背に、祐麒はもう一度だけ声をかけた。
「あまり無茶するなよ」「・・・うん」

 その日は午後から劇全体を通しての稽古があった。
 心臓が弱く山百合会主催の劇に出ることができない島津由乃は演劇に使うテープを流すラジカセの横に座って、体育館での練習の様子を眺めていた。
 ダンス部の有志に混じって山百合会の幹部の姿がある。艶やかに、鮮やかに、瀟洒に踊る姿は、やはり人目を惹いていた。
 でも、由乃は思う。
 やっぱり私の目を惹きつけるのはあの娘だ。
 もちろんそれは、令ちゃんがパートナーを勤めているからということもある。島津由乃にとって支倉令は(グラン・スール)であり、大切な従姉妹なのだから。
 でも、それ以上に、見逃せない何かを由乃は感じていた。普通の子なのに、平凡で、当たり前な少女の姿に、自然と目が惹きつけられる。
 あれ・・・?
 令ちゃんと踊る彼女の姿が揺れた?
 由乃は眉を顰めて目を凝らす。
 令ちゃんは気付いてる?
 いや、たどたどしい少女のステップに気をとられて気付いていないようだった。よく見ると足がもつれかけそうになっている。2回目の通しだ。疲れているのだろうか。
 誰かに言ったほうがいいのかな。
 輪舞(ロンド)が終わる。場面が変わった。
「由乃ちゃん、いいかしら?」「はい、なんでしょう?」
 紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)の言葉に、由乃は顔を上げた。
「次のシーンなのだけど、祐巳の衣装替えの紐を引く役をお願いしたいの」「それは構いませんが・・・」
 由乃はさっき感じたことを祥子さまに伝えようかと迷う。しかし、気が急いていたのか、由乃の言葉の続きを待たずに祥子さまは用件が済んだとばかりに背を向ける。
「じゃあ、お願いね」「あ、はい」
 見送ると、紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)が花寺の王子様と言葉を交わして体育館を出ていくのが見えた。
 タイミングを逃して由乃はステージに上がった。
 先ほどから、祐巳さんがドレスへの変身シーンで苦戦している。その後ろでしゃがみ込んで配置についた。
 ステージでは令ちゃんが呪文を唱えている。爆発音とともに、由乃は彼女の後ろで紐を引いた。一瞬の煙の中から小さなシンデレラが現れた。
「祐巳ちゃん、大成功」
 令ちゃんが拍手とともに声をかける。由乃も小さく拍手をしながら歩み寄った。
「本番でもここをこれぐらいスムーズにやってくれたら、台詞を多少とちっても許すからね」「でも、祐巳ちゃんがここまで頑張るとは思わなかったわ。本番が楽しみね」「・・・」
 そう。祐巳さんの頑張りぶりは手にとるようにわかる。でも、そんな賛辞をどことなく他人事のように、首を傾げていぶかしがりながら、祐巳さんが足を踏み出した。
「あれ?」
 祐巳さんが戸惑うような、心底不思議そうな声を出す。そして、かくんと膝が崩れると、その場に座り込み、こてんと横に倒れた。


3.

 ノックの音が響いた。武嶋蔦子は漠然とした予感とともに振り向く。
 新聞部と写真部は隣同士、壁は薄い。紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)が祐巳さんに取材が来ないよう新聞部のインタビューに答えている様の一部始終が蔦子には筒抜けだった。
 いずれ来るだろうと思っていた。紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と比べると少し時間がかかりすぎたきらいもあるが、当人もいざこざを抱えている以上、まぁ、合格点かと思う。
「はい、どちらさまです?」
「よろしいかしら?」「どうぞ、紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)
 かけられた言葉に蔦子はためらわず招いた。
 紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)、小笠原祥子さまは写真部のドアを開くと写真部特有の薬品臭さに少しためらい、しかし、毅然とした態度で蔦子の城に足を踏み入れた。

 部屋の隅に置かれているベッドに腰をかけて、遠い朝を待ちつづけている。淡い黄色のパジャマに薄いカーディガンを羽織って、うつらうつらと睡魔に捕われては、心臓を掴まれたような衝撃に、あえぐように目を覚ます。
 理由はわかってる。
 私が私を裏切ろうとしている。
 それを私が止めようと悲鳴を挙げ続けているのだ。
 自問自答のクライ世界。
 吐き気すら引き起こしそうな淡い期待にすがりつく私がいる。
 胸に込み上げるふわふわした柔らかなもの。その不確かさと感触が気持ち悪い。
 心なんていらない。夢なんて知らない。憧れなんて信じない。
 心の中でひとり叫び続ける。
 ひとこと叫ぶごとに感じる冷たさを鎚に叩きつける。
 なんども、なんども、叩きつける。
 幻想なんて抱かないように、事実を見間違えないように、何も愛さないように。
 そうすれば耐えられる。何があってもすぐ笑って許せるようになる。誰も裏切らずにいられる。傷ついても血を流しても、涙を流さず笑いつづけることができる。信じなければ、期待しなければ、どんな裏切りだって許していける。
 だから、わたしは・・・。
 だけど、わたしは・・・。
 ・・・信じたい。ゆめを見たい。生きていたい。
 深い井戸の底にたゆたう死体でも、仰ぎ見た遥かな光に憧れる。それが水面に映る幻影に過ぎなくても、その煌めきは眩く、わたしを魅了する。
 それが例え嘘でも、繋いだ手のぬくもりに期待してしまう。
 でも、もう絶望するのは、疲れた。
 遠くで鳥のさえずりが聞こえる。頭を起こす。カーテンの隙間からうっすらとこぼれる明るさに、朝の訪れを知る。
 こうして夜明けを迎えるのはもう幾度目のことだろう。
 大丈夫。
 自分にささやく。
 もうすぐ終わりだから、すぐに終わるから。
 わたしは、大丈夫だ。

「おかけください。お茶やお菓子は残念ながらありませんが」
 武嶋蔦子は誰もいない部室の椅子を紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)に勧めた。
「ありがとう」「いえ」
 祥子さまは椅子に腰かける。その当たり前の動作に潜む優雅さに、蔦子はさすがだと内心思う。
 蔦子は乾燥が終わったばかりの写真の確認をしながら祥子さまの出方を待つ。祥子さまは蔦子のしていることを興味深そうに見つめていた。
 ふぁさっとフィルム一本分の確認を終えた蔦子の手が写真の束をまとめる。印画紙の角の硬い感触を味わいながら蔦子の指は手際良く写真を整え、傷つかないようビニールに包んでゴムで止める。
「いろいろとね、聞きたいことはあったのよ」
 蔦子の作業が一段落つくと、祥子さまはゆっくりと口を開いた。
「でもね、それは祐巳を妹にしてからの楽しみにするわ」「・・・それはそれは」
 蔦子はかろうじて言葉を返す。
 そんな蔦子の反応に祥子さまは笑みを浮かべた。それは内心忸怩たる思いを感じている蔦子から見ても、惚れ惚れするような素敵な笑みだった。
「よろしいのですか?」「ええ」
 蔦子の問いに祥子様が肯く。
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の気持ちも少しわかる気がするわ。いろいろとあるのだと思うの。嬉しいことも、腹立たしいことも、いっぱいあるのでしょうね。でも、そのすべてがきっとわたしと祐巳との絆になる。
 ふふふ、そう思うと、なんだか待ち遠しいくらい」
「祥子さまは、変わられましたね」
「そうかしら。ありがとう」「・・・そういうところがです」
 顔を見合わせ声をあげて笑う。
 それは、ライバルであり、ともに同じ人を大切に思う共犯者の笑みでもあった。
「それじゃ、お邪魔したわね」
 祥子さまが立ち上がる。と、ふと何かを思い出したように振り返った。
「そう、あの写真」「はい?」
 蔦子は一瞬何の話か見えず首を傾げた。
「私と祐巳の映ったあの写真よ」「ああ」
 納得する。そういえば、あの写真が始まりだったと言える。
「祐巳から聞いたのだけど、あの写真を学園際で展示したいのですって?」「ええ」
 蔦子は自身をこめて肯く。
「そう。私は構わなくてよ」「ありがとうございます」
 小さく肯いて祥子さまは写真部を出ていく。
 祥子さまからの精一杯の歩み寄りなのだろう。これから、祐巳さんを挟んで角突き合わせていく好敵手(ライバル)への。
 蔦子は机の前の窓を開いた。
 風が吹き抜ける。蔦子は髪が風に乱れないよう押さえた。心地よい風が薬品臭の篭った部室の空気を入れ替えていく。
 大きく息をして、蔦子は空を仰いだ。
 空は高く、心地よい風に、蔦子は秋の深まりを想った。


4.

 誘ったのは紅薔薇の蕾。
 誘われたのは花寺学院の生徒会長。
 初秋の銀杏並木のはずれで、ふたりきりの秘め事。
 なんて、僕が思うのもなんだけど、祥っちゃんはちょっと無用心すぎる。これで相手が僕でなかったら、きっと誤解される。
 特にそんな愁いと決意をこめた瞳で見上げられたら、たいていの男は愛の告白か、と誤解するに違いない。
「優さんにお話があるの」
 確か祥っちゃんとは一年ぶりぐらいになるのかな。さすがに初な祥っちゃんには僕が同性愛者だって告白は強烈だったか、と思わなくもない。潔癖なところのある祥っちゃんには引かれても仕方がない。
「婚約を解消したいの」
 でも、いきなりそれはないんじゃないかな。

 崩れるように倒れた祐巳さんを保険室に運ぶ。
 互いに目を見交わし、水野蓉子は自分たちの失敗を悟っていた。
「失敗したね」
 蓉子と同じ思いを感じてか、白薔薇様、佐藤聖も顔をしかめていた。
「祐巳ちゃんが頑張ってくれるもんだから、つい、ね」「注意不足だったわ」「そうね」
 黄薔薇様こと鳥居江利子も同意してうなづく。
「どういうことです?」
 鋭さを突きつけるように由乃ちゃんが問いかける。その肩に令がそっと手を置いた。
「祐巳ちゃん、ちょっと化粧してるでしょう?」「? ええ」
 それがどうしたとばかりに由乃ちゃんは遠慮のない視線を姉に向ける。令はなだめるように苦笑しながら説明する。
「たぶん、顔色が悪いのをごまかしているのよ。たぶん、寝不足かな」
 由乃ちゃんがいまようやく気がついたように祐巳ちゃんを見つめなおす。
「この娘は頑張りすぎちゃう子なのね・・・」
 ため息とともに、祐巳ちゃんの寝顔を見つめる。この子が祥子の妹になってくれるのなら。
 と、蓉子はふと周りを見まわした。
「そういえば祥子は?」
「祥子さまなら先ほど席を外されたので志摩子さんに呼びに行っていただきましたけど」

 まぶたの奥に明るい影が揺れる。
 福沢祐巳はゆっくりと目を開いた。
 白い。
 視界を埋める白に、祐巳はここが保健室であることに気がついた。
「目が覚めた?」「!! 祥子さま!?」
 掛けられた声の先、そこに佇む美しい人の影に、祐巳は飛び起きようとする。それをそっと伸ばされた祥子さまの手が止めた。
「駄目よ。もう少しおやすみなさい」
「・・・はい」
 祐巳は上掛けの端に手をかけ、くっと持ち上げるように口元まで隠す。祥子さまは祐巳の見上げるような問いかけるような視線に柔らかな笑みを浮かべた。
「稽古の最中に倒れたのよ。幸い、変なところは打っていないようだけど、気をつけなさい。
 ・・・あまり、心配させないで」
「すみません」
 ぷいと拗ねるようにそっぽを向く姿に、祐巳は恐縮してしまう。
 祥子はそのまま窓の外を見つめている。わずかに開けられた窓からそよぐ柔らかな風が、保健室の白いカーテンを揺さぶった。
「あの・・・」「なにかしら?」
 祐巳はおずおずと問いかけた。
「練習のほうは?」
「ああ」
 祥子さまがなんでもないように答えた。
「今日はもうお仕舞いよ。私の車を呼んでいるの。家まで送るわ」「ええっ!」
 祐巳は思わず飛び起きそうになる。祥子が苦笑した。
「落ち着きのない子ね」「でも・・・」「優さんももうお帰りになったわ。あとは私たちだけよ」
 祐巳ははっと窓の外を見る。もうずいぶんと日が落ち、紅の影も暗く染まる。
「ずいぶん、無理をさせてしまったみたいね」
 祥子さまが溜め息とともに呟く。その物静けさに祐巳は不安を感じた。
 聞きたくない。でも、もう少し、こうしていたい。矛盾する想いに祐巳は身動きが取れなくなる。
「優さんね、私の婚約者だったの。いえ、そうね。正式にはまだ私の婚約者なんだわ。優さんは私の従兄弟にあたる方で、今時、家同士の事情による婚約なんて、時代遅れといわれても仕方がないのだけど。
 でもね、私も相手が優さんだったら、嫌じゃなかった」
 思い出すように優しい笑みを祥子さまが浮かべる。その笑顔はマリア様が浮かべているかのように慈愛に満ちていた。
 が、一転、渋い顔に変わる。
「あ、あの?」「それが、私の15歳のパーティのあと、なんて言ったと思う?
『僕は同性しか愛せない。だから、祥っちゃんも愛人を作って子供を後継者に据えよう。大丈夫。直接血はつながってなくても、祥っちゃんの子なら愛せる自信がある』ですって。
 馬鹿にするにもほどがあるわ!」
 祥子さまはそのときのことを思い出して憤慨する。
 ああ。
 祐巳は納得する。
 だから、この人は王子様と踊りたくなかったんだ。
 好意を向けていた相手からの絶対の拒絶。いや、それはもう拒絶ですらない。
 始まることなく終わってしまった悲しい恋の孵らぬ卵(エンブリオ)
 祐巳はそっと笑みを浮かべた。
 その笑みははかなくて、今にも消えてしまいそうなものだけど、でも、もういいと、祐巳には思えた。
「最初にそう言っていただけたらよかったのに」
「?」
 祐巳は自分の言葉に拗ねるような甘えた響きを感じて、少し恥ずかしくなった。
「どうかして?」「いえ、あの、祥子さま」
 もういい。
 そう言ってもらえるのなら、私を利用する理由を打ち明けてくれたのなら、もうそれで充分だと祐巳には思えるから。
 だから、祐巳はシーツの中から右手を伸ばして、祥子さまの手をぎゅっと握った。
「祐巳?」
 少し驚いたように、慌てるように、でも、しっかりと祥子さまがこの手を握ってくれる。
 だから、もう私は充分満たされたから。
「祥子さま、私にロザリオを下さい」
 だから、きっと私は大丈夫。
 確信と絶望をもって、祐巳は祥子さまの目を見上げた。


5.

 グランドの真中には明々と燃えるキャンプ・ファイア。
 踊る人影。踊る炎に映し出される奇妙な影が、ゆらゆらとたゆたう。
 祐巳はその炎に一冊の台本を投げ入れた。
 几帳面にも後ろに小笠原祥子と名前の書かれた台本は火に煽られめらめらと燃える。
 黒く赤い炎が一ページ、また、一ページと黒い灰に変えていく。そして、赤く燃えるすじを輝かせながら、台本は燃え尽きる。がさりと近くの看板が崩れるのにつられて、残った灰もその姿を失った。
 祐巳はその姿をじっと見送っていた。
 祥子さまからいただいた台本は灰となり消えた。祐巳は、灰にもなれず、塵にもなれず、胸に感じる奇妙なうずきを抱えたまま、ここにいる。
 合奏部が音楽を奏でる。
 集まる人の輪が炎の周りにできて踊る。揺らめく炎に照らされて、映し出される表情は、赤く、白く、のっぺりとした仮面のようで、めまいがする。
 祐巳は頭を軽く振って意識をはっきりさせると、炎に背を向けて歩き出した。

「駄目よ」「! 祥子さま!?」「絶対に駄目」
 反論を許さない厳しさでぴしりと祥子は告げた。見上げる潤んだ瞳に思わず抱きしめてあげたい衝動と戦いながら、それでも祥子は表情を崩すことなく告げた。
「どうしてですか?」
「そうね。貴方にはそれを訊ねる権利があるわね」
 祥子の拒絶に、表情をこわばらせた祐巳が問いかける。祥子はかつてと変わった立場におかしみを感じた。
「貴方は同情で妹になってくれようとしているのでしょうけど、私が欲しいものは違うわ。わかるでしょう?」
 祐巳がゆっくりと首を振る。
 わかっていないはずがない。それはこの娘が何より望んでいるものだから。
 だからきっと、わかりたくないのだろう。
 願って、望んで、拒絶されるのはつらいから。
 希望はいつも絶望のローブをまとって輝いているのだ。
「貴女のすべてが欲しい。その憎しみも怒りも喜びも哀しみも、すべて私に向けて欲しいの。
 でも、今は駄目。
 いま貴女を妹にしても、きっと貴女は理由をつけてしまうわ。
 だから、駄目。
 賭けや意地や犠牲や、そんななんの理由もいらない貴女が、私は欲しいの」
 祥子は想いよ届けとばかりに祐巳の手を強く握りしめた。
 こくり、と少女の頭が肯いた。

 照らすのは月の灯り。
 遠くに聞こえる音楽が、ふたりのステージを静かに彩っていた。
「遅かったわね」
 彼女が来ることを微塵も疑っていないような、自信溢れる声で祥子さまが告げる。
「申し訳ありません」
 祐巳はぺこりと頭を下げた。そんな祐巳の姿に祥子さまがふっと笑みを浮かべる。
「本当に、しょうがない子ね」
 祥子様は祐巳を抱きしめるかのように両腕を伸ばすと、カラーの下から祐巳のタイを整える。祐巳はじっと、逃げることなく祥子さまに身を任せていた。
 向かい合う。
 祥子様は制服のポケットに手をいれると、銀色に輝くロザリオを取り出した。シンプルな十字架のついたそれに、祐巳が身を硬くする。
「かけても、いいわね?」
「・・・わたし、面倒な女ですよ?」
 祐巳はためらいがちに祥子さまを見上げる。祥子さまは、あら、と心外そうな表情を浮かべた。
「貴女、面倒ということにかけて、私に敵うと思って?」
「いいえ! ・・・あ、いえ、その・・・」
 全力で首を振って、はっと祐巳は祥子さまの顔色を伺う。少し眉が吊り上がっていた。自分で言うのは良いが、人に肯定されるのは駄目らしかった。
「いいわ。私にも自覚がないわけではなくてよ。
 だから、これでおあいこ。ふふふ、貴女のかける面倒がどれほどのものか、楽しみだわ」
 不敵な笑顔で言いきって見せる。そんな祥子さまに、こんなことで張り合わなくたって、と祐巳は思うが、反面、嬉しくもあった。表情に出すと負けを認めたようで悔しくて、必死に無表情を装うが、そんな祐巳を見透かすように祥子さまが見下ろす。
「だから、安心して私の手を煩わせなさい」
 あ、と、思ったときには遅かった。
 ぽろりと瞳からこぼれ落ちる感触。頬を伝う濡れるものを祐巳は押し止めることはできなかった。
「待って」
 慌てて顔をそむけ、涙を止めようとする祐巳を祥子さまが押し止める。顔をあげた祐巳を抱きしめるように祥子さまが腕を回す。首にかかる金属の重み。
「ああ・・・」「捕まえたわよ」
 首の後ろでかすかに響く金属音に、祐巳はずるいと感じる。でも、いつもは気持ち悪く感じるそれを、なぜか自然に受け入れられる自分がいた。
「祐巳、これで貴方は私の(プティ・スール)よ」
 ああ、遠くに音楽が聞こえる。
 それはいつか見た美しい人の幻だ。
 だが、それはいま、リアルな質感をもって祐巳の返事を待っていた。
「はい・・・」
 祐巳は肯く。
 聞こえるのはアヴェ・マリア。
 優しい闇と音楽に包まれ、マリアさまの御前で。
 祐巳は答えた。
「はい、お姉さま」



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$Date: 2005/07/06 15:13:47 $