水底の月
第五話 ・・・ 静かな場所
1.
祐巳さんは不思議な人だ。
私が祐巳さんと仲良くなったのは、席が偶然祐巳さんの前になったから。祐巳さんは人懐っこくて可愛らしい。明るく元気で、すぐに私と仲良くなった。同じクラスになった志摩子さんのように、はっと目を引く美人ではないけれど、無邪気な可愛らしさが自然に漂う。
ただ、時々、ふと透き通った音の響くような儚げな気配に包まれるときがある。
触れれば壊れそうで、話しかければ何か大切なものを無くしてしまいそうな、冬の夜空を見上げたときのような、しんと耳に響くような寂しさを感じるときがある。
いつものように淑女らしからぬ笑い声をあげてはしゃぐ日々の中、そんな祐巳さんの気配はすっかり息を潜めたはずだった。
でも、あの噂が流れるようになってから、また、祐巳さんは危うく見える。
だから、捕まえた。祐巳さんがどこかに行ってしまわないように。
「どうなってるの、祐巳さん?」「な、なに?」
ぎくりとしたような、見つかったという表情。私は祐巳さんの肩を押さえて訊ねた。
「祐巳さんが山百合会幹部の主催する劇に出るって、もっぱらの噂になっているわよ」
桂さんに抱えられて運ばれていく祐巳の姿を藤堂志摩子は教室に入るなり気がついた。
もちろん、気がついたのは志摩子だけではない。同じく教室にいた誰もが、さりげなく視線で互いを促していた。その視線は、しかし、志摩子には向けられない。
これが、志摩子と祐巳さんの違い。
そして、山百合会と一般の生徒との距離。
桂さんが祐巳さんと話しているその場所に、ひとり、また、ひとりと生徒達が集まっていく。心配になってそちらに向かおうかと腰を浮かせたとき、祐巳さんの声がした。
いつものように笑いながら皆さんの問いに答える。
「祥子さまが、本気で私なんか
姉妹に選ぶはずないじゃない」
いつものように、笑いながら。
その声はとても残酷に志摩子には聞こえた。
2.
福沢祐巳はさくさくと落ちた葉を踏み分ける音にふと頭を起こした。
「あなたたち、こんなところで食べているの?」
紅薔薇の蕾、小笠原祥子さまだ。祐巳は頭をちょこんと下げて挨拶する。
体育館の影になる銀杏の木の袂に、祐巳は藤堂志摩子さんに誘われて、お昼を食べていた。祐巳の教室からの脱出した蔦子さんも合流している。
こんなに簡単に見つかるのなら、ここ、あまり隠れ場所に向いてないんじゃ、と思ったりしたのだが、現に他には誰も来ていないから、大丈夫なのだろう。
蔦子さんが新聞部に追われている顛末を伝えると、祥子さまは思案げな表情で肯いた。
「そう・・・」「ところで、祥子さまはどうしてこちらまで?」
妙な緊張感がみなぎる。そこに志摩子が不思議そうに尋ねた。
ああ、思い出した、とばかりに、祥子は手にした一冊の冊子を祐巳に差し出した。なんとなしに祐巳は受け取る。表紙には山百合会演劇台本とあった。
「これは?」
首を傾げて、そっと祐巳が祥子を見上げた。
「今度の劇の台本よ。色が付いている個所を放課後までに覚えておきなさい」「ええ!!」
祐巳は慌ててページをめくる。そこは赤と緑の蛍光ペンで彩られていた。
赤い色はシンデレラ、緑の色は姉Bとなっている。
当然のことながら、赤い色は断然多かった。
水野蓉子は手芸部と書かれた扉をくぐった。
手芸部には山百合会の演劇の衣装をお願いしている。ここを訪れたのも、その打ち合わせのため、ということにしてある。手芸部の部員たちは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の訪問にてんやわんやの大騒ぎで正直申し訳なかったが、こういう機会でもなければ彼女と接触する機会もなかっただろう。
手芸部の説明を聞いて、邪魔にならない程度に少し作業を見て回る。
その一角に彼女たちがいた。どことなく聖に似た、りりしい面立ちの3年生と、膝元に座った髪の長い少女。間違いなかった。
蓉子は声をかける。それはいづれ彼女の妹が構えるだろう闘いの前哨を告げるものだった。
「ごきげんよう、菜都実さん、美子さん。作業のほどはいかがかしら?」
「
紅薔薇さま・・・」「ごきげんよう、
紅薔薇さま」
多分、言わずとも理由を悟ったのだろう。二人は少し硬い表情で蓉子を見上げた。
「すこし、お話したいことがあるのですけど、よろしくて?」
3.
立ち去ってゆくあの人を見送る。
伸びた背筋、りりしい背中。まるで、周囲の空気をかき分けて歩くその姿に、祐巳はふと、怪獣みたい、と想像して、思わず笑みをこぼしていた。
小笠原属お嬢様科サチコザウルスが周囲に口から火を吐きながら、ずしんずしんと歩いていく。たった一人で、触れ合うものにぶつからずには生きていけない、淋しいロンリー・ザウルス。
「よくここまで祐巳さんを捜しに来たって、驚いてるの。少しでも早く台本を祐巳さんに渡してあげたかったのね」
志摩子さんが言う。
「・・・なんでそう思うの?」
信じない。私は信じない。
「祥子さまは桜や銀杏がお嫌いなの」
でも、きっと目的のためなら、それぐらいする。
「あのかた、すごく意地っ張りで、好き嫌いの激しい方だから、嫌いなもののためには梃子でも動かないのよ」
そう。意地を張っているだけだ。最初に言いだしてしまったことを守ろうと意地を張ってるわらしべ長者。
『わらしべ長者、いいじゃない』『どこがですか』『祥子がずっと握ったままなところ』
ふとあの白く空虚な先輩との会話が思い出されて、祐巳は頭を振って追い出した。あの先輩のことは嫌いだ。うつろに響く感じが私に似ている。死んだはずの心の底に、それでも鳴り響くような感触に、落ち着かない。そんな自分自身に怒りすら感じる。
信じない。わたしは絶対信じない。
自分に言い聞かせる。何度も何度も。いつもの自分の心を埋葬する儀式。
そんなことに夢中になっていたからあろうか。祐巳は志摩子さんの言葉に注意を払うことを一瞬忘れていた。
「だからね」「へ?」
その言葉は、祐巳のまとう不信の鎧の隙間を貫くように突き刺さった。
「祥子さまと祐巳さん、きっとお似合いだと思うの」
台本に視線を落とす。踊るように並ぶ緑と赤の蛍光色をうらやましく思った。そして、そんな生暖かな自分に吐き気すら覚えた。
水野蓉子は大塚菜都実さんをミルクホールに誘っていた。クラブ活動で人の少ないここのほうが詳しい話をするのに適切だと考えたからだ。薔薇の館では逆に警戒されてしまうだろう。
蓉子は暖かなミルクを両手で持つと、菜摘美さんが来るのをそれとなく待った。椅子に座り、イチゴミルクに視線を落とすタイミングで、蓉子は話し掛けた。
「祐巳さんて良い子ね」「・・・ええ」
予想はしていたのだろう。菜都実さんはビンを見つめたまま頷く。
「本当は私反対だったの」
蓉子の言葉に菜都実さんが心外そうな複雑な表情を見せる。
「祐巳さんを妹にしたら、きっと祥子は寄りかかってしまうから。そうしたら、祐巳さんが潰れてしまう。そう思ってた。
だから、反対していたの」
「祐巳はそんな弱い子じゃないわ」「そうね」
菜都実さんの言葉は正しい。きっと祐巳さんなら祥子を支えられるかもしれない。でも、そのために、祐巳さんは多くの涙をひっそりと流す。寄りかかられ、押しつぶされて、それでも強いあの少女は罅だらけの心の破片を必死に寄せ集めて、軋む悲鳴に血を流しながら、笑うのだ。それは、あまりにも不憫だ。
菜都実さんはそれを知っている。祥子も、そして、私も。
だからこそ、許せないことがある。
「だから、あの子は私たちがもらうわ」
これは宣言だ。福沢祐巳を今までのしがらみから解き放つための。宣戦布告だ。
蓉子の告げる意味がわかったのだろう。菜都実さんがふっと不敵な笑みを洩らした。
ああ、わかっていない。菜都実さんは祐巳さんとの絆を盲信している。でも、この人は祐巳さんのことをわかっていない。自分たちが祐巳さんを追い込んでいることをわかっていないのだ。
「あの娘が受けるかしら」「祥子を甘く見ないで下さる?」
そう。まず姉である私こそが信じよう。たとえ傷だらけになっても、祥子があの子を抱きしめる強さがあると。
「それに、あなたでは祐巳さんを救えない」「え?」
意外な言葉に菜都実さんが驚く。それすらわかっていないこの人に祐巳さんは救えない。いいえ、きっとあの娘を救うことなんて誰にもできないのだろう。でも、あの娘には自分を癒す強さがある。だから、本当に必要なのは・・・。
「だから、私たちがあの娘を守るわ」
祥子を、祐巳さんを、私が守る。
あの娘の心を、私たちがあの娘自身から守る。
「今日はそれをお伝えしたかったの」
蓉子はゆっくりと立ち上がると、嫣然とした笑みを向けた。
口を挟むな、と菜都実さんに強く意識させる。これで、祥子が祐巳さんを口説くのに横槍が入ることはないだろう。
「それでは、ごきげんよう」
蓉子は飲み終わったビンを片手に軽く会釈をすると、ビンを洗って戻す。
心は決まった。
もう振り返る必要はなかった。
4.
王子さまは花寺学院の制服を身にまとい、リリアンの門の傍らに立っていた。
福沢祐巳は絵になる人ってのは、こう言う人のことを言うんだろうな、と思う。弟の祐樹も彼と同じ花寺の学生のはずだったが、正直比べるのもおこがましい。
「失礼ですが、柏木さんですか?」
他にいるはずのない、わかりきった問いではあったが、祐巳は念のために問いかけた。
「山百合会のお迎えの人? 柏木優です。今日はよろしくお願いします」
さすがにそつがない。長身でいい男だと思う。
「はい。お待たせして申し訳ありません」
祐巳はぺこりと頭を下げる。そして、先導して歩く。柏木さんはなぜか興味深そうに祐巳を見つめた。
「へぇ・・・」「あの、なんでしょう?」
その無遠慮な視線に居心地が悪くなった祐巳が尋ねる。柏木さんは軽く微笑んで見せた。
「君、もしかして、福沢さん? 祐麒のお姉さんの」「祐麒をご存知なんですか!?」
祐巳が目を丸くして問いかける。柏木さんは肯いて見せた。
「ユキチが、ああ、祐麒のあだ名なんだ、以前、リリアンのことを、ちょっとね」
口篭る。祐巳は廻りが気にするほど、本人は気にしていないものなのに、と思いつつ微笑んで見せた。
「悪口でも言ってました? 後でとっちめておかないと。
こちらから入ってください」
祐巳は冗談だと判る口調でおどける。来客用の玄関に案内して、来客用のスリッパを用意する。そんな祐巳の様子を見ていた柏木さんがふっと苦笑を漏らした。
「ああ、ユキチには僕がばらしたことを内緒にしてもらえませんか?」「すぐわかっちゃいますよ。申し訳ありませんが、こちらで少々お待ちいただいていいですか? 私、上履きに履き換えてきますから」
祐巳は笑みを浮かべて一礼すると、スカートの裾が乱れない程度に駆け足で昇降口を廻りこむ。くらくらする。その視界の隅に祥子さまの姿が見えた気がした。
一足先に体育館へ行くと告げて、
紅薔薇の蕾、小笠原祥子は逃げ出すように薔薇の館を出た。
もちろん、祥子自身は逃げ出したつもりはない。むしろ先に花寺学院の王子役を、柏木優さんを見てやろうと自分を叱咤しての行動のつもりだった。
でも、駄目だった。
図書館の影から垣間見たその姿に、祥子は思わず逃げ出していた。
帰ってしまおうかとも思った。このまま、帰ってしまえば、次の機会まで会うことはない。逃げてしまえばいい。
お姉様には失望されてしまうかもしれない。ほかの山百合会の幹部たちの呆れる表情が目に浮かぶ。それでも、優さんに会いたくなかった。
体育館の縁台の縁に腰かけていた祥子は手を着いて降りようとした。
そのとき、体育館の扉が開く音がした。もう来たのだろうか。
構うものか。表情を作って強行突破してしまおう。
そう思って祥子は手で表情を確かめようとして、止まった。
両開きの扉から、ぴょこんと特徴あるツインテールの髪にまとめられた頭が覗いていた。
少女の視線が体育館を巡り、祥子を捕らえて止まる。その虚ろな瞳が祥子を見つけてほっとしたように見えたのは、祥子の自惚れだろうか。
いいえ。自惚れではきっとない。だって、あの娘は一人で祥子を見つけたのだから。
なんとなく、胸がじんと暖かくなる。そして、自分が今しようとしていたことを思いだして、背筋が寒くなった。
祥子はこの娘を置いて逃げ出そうとしていたのだ。
なんて無様な。
思わず自分を罵る。結局、私はこの娘を身代わりに、犠牲の羊として選んだというのか。それほどまでに、小笠原祥子は惨めな少女だというのか。
あの娘が近くまで来る。よっと両手を着いて、祥子の隣に座った。
「スカートが汚れるわ」「・・・へ?」
ちょっと遅かったかも。
柏木さんを伴って薔薇の館に戻った福沢祐巳は館にシンデレラの姿がないことに気が付いた。
帰ってしまったのだろうか。
でも、と、思う。それは祥子さまらしくない。
いくら食べず嫌いの祥子さまも、ここまで挑まれて逃げて回るなんて思えなかった。
やっぱり、あれは祥子さまだったのだろうか。
先ほど、図書館の影に見かけた人影を思う。こっそりと王子様を覗き見するのは、淑女としてはいかがなものか。
「あの、祥子さまは?」
柏木さんのお相手を紅、黄の薔薇さま方にお任せして、流しでお茶を出す手伝いをしながら、
白薔薇さまに尋ねる。
「先に体育館に行くって言ってたわ。なに? 気になる?」
少し意地悪に笑いながら、答えてくれる。祐巳はなんとなく自分を飾る気にならず、首を傾げて見せた。
「さぁ。どうなんでしょう?」
それは自分に対する問いかけだった。
祐巳は自身に問いかける。そして、問いかけようとしていること、それ自体が気にしていなければ思いつかなかっただろう事に気づいた。
「私も先に行ってます」「祐巳ちゃん?」
洗い終えたコップを籠に並べると、祐巳はゆっくりと部屋を出る。
ゆっくりと気を付けておんぼろの階段を降りる。でも、下りた頃には、その脚は早足になって、駆け出していた。
5.
クリスマス・ツリーの一番上に付いている金色の星。
いろんな色の光に照らされても、ただ一つ一番高くに輝いていたそれがとっても欲しかった。
体育館の演台に、二人並んで座る。
福沢祐巳はいざ祥子さまを見つけたはいいが、かける言葉を見つけられずにいた。正直、困る。
なぜ私は祥子さまを追いかけてきたのだろう。
その問いはぐるぐると祐巳の頭の中を回り続けている。回りすぎていつか頭の中身がバターのようになってしまわないか、心配だった。
「いたのよ」「・・・え?」「本当はいたの。あの場所に」
祥子さまの声が響く。
「紹介される前にこちらから顔を拝んでやろうと思ったの」
「で、どうでした?」「・・・別に」
祥子さまが顔をそむける。
なんとなく、わかった。
この人は柏木さんのことが好きだったんだ。
どう言う知り合いなのかわからないけど、相手が柏木さんだったから駄目だったんだとわかる。
ひょいと祥子さまが壇上から降りる。誇らしげに、胸を張って、振り向いた。
それは虚勢かもしれない。精一杯の意地なのかもしれない。
でも、そんな意地っ張りが祐巳には素直に好ましく思えた。
「いい? 私は戦わずして負けるつもりはないわ。私は自分からは絶対に逃げない。逃げたら負けよ。私は負けることが何よりも大嫌いなの」
ぴょんと祥子さまが舞台から飛び降りる。そして、大きく伸びをすると祐巳に右手を差し伸べた。
「祐巳」
その手は迷うことなく、舞台に座る祐巳を誘っていた。
「みんなが来るまでダンスの相手をしてあげるわ」「え?」
躊躇わず差し伸べられた白くほっそりとした腕に、祐巳は目眩がした。
この手を取っていいのだろうか。
祥子さまは祐巳の答えを待ち続けている。その手はただひたすらに祐巳に差しのばされていた。
祐巳の目が差し伸べられた手から順に祥子さまの顔に、その意志ある瞳に引き寄せられる。その瞳の輝きは、祐巳に何よりも欲しかったクリスマス・ツリーの金の星にそっくりだった。
祐巳の右手がおずおずと祥子さまの手と重なる。自信たっぷりな笑顔が祐巳を認めてぎゅっと握りしめた。
「うぎゃ!!」
祐巳の腕が強く引かれた。
宙にふわりと浮かび上がったのも束の間、祐巳はそのまますっぽりと、暖かく柔らかな身体に抱きしめられていた。
繋いだ手はそのままに。
祥子さまの左腕が祐巳の腰に回されて、抱き合うように、寄り添うように、祐巳は祥子さまと向かい合った。
「えっ! いいです。いいです」
祐巳はその暖かさに落ち着かない何かを感じて、逃げようとする。しかし、祥子さまの腕はしっかりと祐巳の腰を捉えて放さなかった。
「あなたはよくっても、私がよくないの」
祐巳のはなんか滑らかじゃないから気になっちゃって。
祥子さまの暖かさが祐巳を魅了する。
一、二、三、一、二、三。
リズムに合わせて動かす身体が、心地よい。
このひとときを手放したくなくて。
このひとときが終わらないように思えて。
「笑って?」
踊り続ける。
輝く金の星をこの手に。
祐巳は思う。
私は・・・望んでもいいのだろうか。
わからない。わからない。わからない。
でも、踊り続けるこのひとときが、永遠であればいいのに。
このまま時が止まればいいのに。
見上げる祥子さまの笑顔。
祐巳はただひたすらに輝く金の星を見つめ続けた。
$Revision: 1.3 $
$Date: 2005/07/06 14:36:22 $