水底の月


第四話 ・・・ 水底深く



1.

 猿の王さま。猿の王さま。お月様が井戸に溺れておいでです。
 祐巳はひっそりと心の中で謡う。
 それは大変。我らでお月様を助けてあげましょう。

 校内に紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)(プティ・スール)を選んだという噂が広まるのは早かった。
 その噂はお昼前には祐巳のクラスにも伝わり、クラスの廊下は休み時間になると、あの紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)、小笠原祥子さまが藤堂志摩子の次に目をつけた謎の美少女を一目見ようと学年を問わず、ひっきりなしに人が訪れていた。
 その様子を祐巳が廊下から見えないように机の隣に立っていた武嶋蔦子はため息とともに呟いた。
「誰が噂の本人か、教えてもらわなきゃわからないのが、幸せでもあり不幸でもあるわね」「確かにね。地味な顔でごめんなさい」
 祐巳さんが申し訳なさそうに頭を下げる。蔦子はぱたぱたと手を振った。
「あ、いや。一番心配だった輩は来てないようだから、大丈夫だとは思うんだけど、それにしても噂が広がるのが早過ぎるわ」「・・・そうね」
 たぶん、薔薇さま方が積極的に噂を流しているのだろう。学年、クラス、名前までほぼ正確に伝わっていた。
 退路を断つ。そんな気配すら伝わってくる。
「でも、どうせすぐに消えるよ。だって、私、こんなだし」
 祐巳さんが周囲で聞き耳を立てている同級生に聞こえる程度の声で困ったように笑う。それは祐巳さんをよく知る同級生たちに、彼女自身この無責任な噂に困っているのだと知らせていた。そして、そんな祐巳さんの様子に、同級生たちが仕方がないなぁと言うような柔らかな笑みを浮かべる。
 内心、蔦子はさすがだ、と思う。そして、自分の起こす波紋をかき消して、平凡に埋没していく。そんな、自分という存在がいつ消えてもいいように準備しているような姿が哀しかった。
「なんにせよ、お昼休みは教室にいないほうがいいわよ」「どうして?」「新聞部が取材しに来るという情報をキャッチしたから」「ふぇえ゛・・・」
 祐巳さんの表情が暗くなる。
 新聞部にまで騒がれては顔が知れ渡ってしまう可能性がある。はっきり言って祐巳さんは人目を惹くのだ。それは志摩子さんのような大輪の花のような艶やかさではなく、祐巳さんといっしょにいることによって広がっていく風にそよぐ無数の花々のような華やかさだ。その花一つに目を向ければ、平凡だとすぐに忘れ去ってしまうかもしれない。でも、華やいだ場所、そこにはきっと祐巳さんの姿がある。そんな華なのだ。
 祐巳さんはもうずいぶん長い間、笑っていない。
 この先の祐巳さんの平穏すら奪おうとしている薔薇さま方が腹立たしかった。
「大丈夫。文化祭が終わるまでだよ」
 祐巳さんが笑う。その諦めた笑顔が痛々しかった。


2.

 話を聞いた猿の王さま。供を引き連れ、井戸を覗く。
 そこにはちゃぷちゃぷお月さま。
 古井戸深く泳いでた。

「ごきげんよう、黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)
 周囲を気にしないおっとりとした声をかけられて、支倉令は振り向いた。
「やぁ、美子(よしこ)さん。ごきげんよう」
 令はにこやかに笑う。ミスター・リリアンの笑みを正面から受け止めた美子が照れたように笑みを返す。
紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)(プティ・スール)をお決めになったと伺ったのですけれど、その噂、本当のことなのですの?」
 令は意外な人物からの問いに笑みを深くした。確かこの美子さんは一目ぼれで姉を見つけ出し、押しかけに近い形で姉妹(スール)になって以来、ほかの姉妹関係には見向きもせず、姉一筋だったはず。そんな人にまでこの話が伝わっているのかと思うと、紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)問題がリリアンでいかに注目されていたのかを感じる。
 ああ、いけない。今朝、お姉さまから言われていたことを忘れていた。
「美子さんがどんな噂を聞いているのか判らないけど、祥子が妹にしたい子を見つけたというのは本当。でも、まだ妹にするかどうか判らないわ。だから、あまり騒がないでほしいんだけど」
 苦笑する。もう充分に騒ぎになっているとは思うのだけど、騒がれすぎて、祥子が意地になっても困る。
「あら、祐巳さんはお受けにならなかったですのね」
 美子さんが納得して肯く。令はなんとなく奇妙な感じを受けたが、あいまいな表情で尋ねた。
「美子さんは祐巳さんをご存知?」「ええ」
 意外だった。でも、確かに考えてみれば、祐巳さんは幼稚舎からのリリアン生だ。上級生の中に彼女のことを知るものがいても不思議ではなかった。
「祐巳さんが紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)になられたら・・・。ふふふ、素敵。きっとお姉さまもお喜びになられますわ」
 美子さんがまるで我が事のように喜ぶのを見て、令は昨日の会議、と言ってもいいのだろうか、を思い出してばつの悪い気持ちになった。
 その娘を山百合会総出で賭けに巻き込みました、なんて、言えないよなぁ。
「祥子が納得してくれれば一番いいんだけど」
 そう。素直に悪あがきをせずに、諦めてくれればいい。祐巳さんはいい子だから、祥子の癇癪の相手をさせられないよ。
「あら、紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)はあの娘ではご不満なのですの?」
 美子さんがゆっくりと首を傾げる。そして、井戸に石を放り込んだような波紋を広げる言葉を放つ。
「では、私の妹にいたしましょう」
「え!?」
 令は思わず声をあげる。目の前の女性はあたりまえのように続けた。
「わたくし、以前祐巳さんに妹になりませんかと申し出たことがありますのよ?」
 きっと、今度は大丈夫ですわね。
 そう、くすりと笑って、美子さんが立ち去る。
 残される形になった令は思わず見送ってしまった。そして、さっと青ざめた。
「もしかして私、敵に塩を送っちゃった?」
 祥子に怒られるかも、そう思いながら令は別のことに感心していた。
 祐巳ちゃんて、意外に人気あるんだなぁ。


3.

 手を伸ばしても、井戸は深く、お月さまには届かない。
 これは困った。猿の王様。仲間を呼んで手を伸ばす。

 お昼休み。一連の騒ぎで教室を抜け出た祐巳はナフキンに包まれたお弁当を片手に途方に暮れていた。
 いつもお昼を一緒にしている桂さんたちは、混乱冷めやらぬ教室だ。蔦子さんは新聞部の取材から祐巳を脱出させるための尊い犠牲となった。祐巳は廊下の人混みを抜けると、ひとり食事できる場所を考えていた。
 一人でいることは、嫌いではない。むしろ、一人きりでいられることは、好きだった。ただ、一人でいることの快適さに慣れてしまうことが怖かった。
 何もかもを捨ててしまうことに躊躇いを感じなくなってしまうような気がして。
 それは蔦子さんや桂さんたち、祐巳を取り巻く日常に対する裏切りのように思えるのだ。
 切り捨てなければ生きていけないほど祐巳は弱くない。そして、切り捨ててしまえるほど、冷たくもなれなかった。
「祐巳さん、こっち」
 物思いに浸るのも一瞬のこと。
 祐巳は階段のほうからささやく声に我に返った。視線を向ける。そこには志摩子さんが片目を閉じて、くちびるに人差し指を当ててしっという仕草をしていた。
「一緒にお昼食べましょう」
 なぜ志摩子さんが声をかけてきたのかよく判らず、でも、祐巳はなるべく人目を惹かないよう身を縮めて小走りに階段を降りた。
 志摩子さんが先に立って祐巳を誘ったのは、講堂裏の銀杏の木の袂だった。一本だけ桜の木が生えている。そこはちょうどいい具合に影になっており、講堂からの階段が座る場所を提供してくれていた。
「こんなところで、毎日お弁当食べてるの?」
 祐巳は志摩子さんの意外な行動範囲にちょっと目を見張った。
「季節限定よ。春と秋の天気がいい日。春は桜が、秋は銀杏が採れるから」「・・・銀杏なんて、好きなの?」
 西洋人形みたいに綺麗に整った面立ちの志摩子さんが、銀杏が好きと言うのに、わずかばかりのギャップを覚え、祐巳は思わず問いかけた。志摩子さんが照れたように頬を赤く染める。
「銀杏は好き。あとは百合根や大豆とかも」「ふぅん、和風が好きなんだね」「ええ」
 志摩子さんのお弁当を見ると、見事な日本の食卓だった。祐巳は志摩子さんが突き易いよう、自分のおかずの入ったお弁当箱を志摩子さんとの間に広げた。
「ふふふ」
 志摩子さんが微笑む。祐巳は首を傾げた。
「どうしたの?」「あのね、私、ずっと祐巳さんとこうしたかったの」「そんな、私でよければいつでもご一緒するよ」
 反射的に祐巳が答える。そんな祐巳の姿に志摩子さんが本当に幸せそうに微笑んだ。
「祐巳さんならそう言ってくれると思った」
 その言葉に祐巳は一瞬言葉をなくす。そして、覚えず顔を伏せた。
 志摩子さんの向ける無邪気な親愛の情が痛い。その笑顔はずたずたに引き裂かれた傷から滲みるように、祐巳の不誠実さを責める。
「祐巳さん?」「う、うん。ちょっと嬉しくなっちゃって」
 祐巳は笑顔で志摩子さんの好意に答える。
 でもね、志摩子さん。志摩子さんの好きな福沢祐巳は偽者なんだよ。
 笑う。嗤う。嘲う。
 志摩子さんと言葉を交わしながら、祐巳は嗤う。
 騙すことでしか志摩子さんと仲良くできない自分を、祐巳は志摩子さんと一緒に仲良く嗤い続けた。


4.

 一人つないで手を伸ばす。猿の王さま手を伸ばす。
 けれども遠いお月さま。
 溺れるお月さまには届かない。

 放課後の喧騒の熱もいまだ覚めやらぬとき。あの娘はひとり音楽室のピアノを前に座っていた。
 弾き慣れた、といえるほど滑らかではない。技巧的には稚拙とすら言える指遣いで弾く。
 奏でるのは・・・。
「ああ、グノーのアヴェ・マリア」
 単純なメロディをただ、弾く。それは音を音のままに、情感を越えた、ただ音ゆえの美しさを求めているようにも思えた。
 ただ一人、すべてを失った先にある絶対を求めて。
 静かに邪魔をしないよう歩み寄る。
 不思議。
 なぜこの子がこれほどまでに気になるのだろう。
 小笠原祥子は自分で言うのもなんだが、気が短い性格だ。そんな祥子にとって妹に望むのは、供にいて心安らぐ、志摩子のような存在だとばかり思っていた。だからこそ、祥子は志摩子にロザリオを渡そうとしたのだし、結果的に志摩子は白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の手を取ったのだけれど、そのときの判断を間違いだと思わない。
 だけど、いま、実際に自分が惹かれているのは、なんの変哲もない、でも、とても危うい少女。触れた先から壊れていってしまいそうで、壊れながらも崩れない、とても強い少女だ。
 抱きしめれば、たぶん、傷つく。その傷すら愛おしい。
 お姉さまが暗に反対する理由も判る。甘美な誘惑に、そっと手を伸ばす。
 小さな背中。抱きしめてあげたいほどに、怯えているこの少女を。
「※★%#△*◎――!?」
「なんて声出してるの。 まるで私が襲っているみたいじゃない」
 怯える少女を守るように、抱きしめるように、包み込む。その腕の中で怯える少女が私を見上げる。信じてもいいのか、期待してもいいのかと、傷だらけの問いを投げかけるように私を見上げていた。
「お、音もなく背後から現れれば・・・。誰だって悲鳴を上げますよ、祥子さま」
「ピアノの演奏の邪魔したらいけないと言う、配慮からよ」
 祥子はそういって左手を伸ばした。抱きしめるように包み込むように。
 そして、優しく肩に手をかける。
「弾いて?」
 ぎこちない少女の奏でるメロディに合わせて伴奏を添える。
 このひとときが永遠に続けばいいのに。
 そう願ったのは、私だけだろうか。

「祐巳」
 祐巳は語りかけられた声に、ひとり音楽室で書いていた日誌の手を止めた。
 いずれ、来るだろうとは思っていた。もしかしたら、動揺するかも、そう思ってもいた。
 でも、いざ当人を目の前に、すごく静かな心でいられる自分は、やっぱり酷い人間なんだと思う。
 ああ、こうして静かな心のまま眠りにつくことを、Rest in Peaceと言うのかもしれない。
 だとしたら、私、福沢祐巳という人物は、きっとずっと、当の昔に、死んでしまっているのだ。
 探るように、問いかけるように、彼女が一歩踏み出す。
 祐巳はびっくりした表情から、満面の笑顔に変えて、答えた。
「ごきげんよう、菜都実(なつみ)さま。音楽室をご利用ですか?」
 ほっと安心した様子で、大塚菜都実さまは片手をあげた。
「ごきげんよう。久しぶりね」
「はい。菜都実さまもお元気そうで何よりです」
 軽く、答える。
 大丈夫。自分に言い聞かせる。だって・・・。
 私は、うそつきだ。

 抱きしめるように、包み込むように。
 ふたりの奏でるメロディは、しかし、突然乱れた。
「あはは、やっぱり駄目ですね。祥子さまにはついていけません」
 それは拒絶の言葉だ。祥子には祐巳がわざと音を外したのだと容易に見て取れた。
「そう? とても気持ちよく弾けていてよ」
 祐巳の耳元に囁く。祐巳を諦めないという決意を伝える。吐息がくすぐったかったのか、祥子の意思に当てられたのか、祐巳がびくりと首をすくめた。
 祥子は祐巳を傷つけないようゆっくりとピアノの蓋を閉めると祐巳を促した。
「じゃぁ、そろそろ行きましょうか」「は!?」
 祥子の言葉に祐巳がきょとんとする。本当に判っていない様子に自然と笑みがこぼれる。
「私が何をしにここまで来たと思ってるの?」「そういえば。…祥子さまはなぜここに?」「もちろん」
 頭にはてなマークが浮かびそうなしぐさに祥子は柔らかく言った。
「あなたを迎えに来たのよ」
 祥子はそして薔薇さま方から伝えるように言われた通りに、祐巳が山百合会の劇につき合って貰うよう告げる。
「ええぇ!! でも、私は・・・」
 納得の行っていない表情ながら祐巳が付いてくるのを確認すると、祥子は音楽室の扉を開けた。祐巳が鞄と清掃日誌を抱えて続く。
 二人で歩く廊下。まだ放課後の熱気が残った、でも、少し静かな校舎を歩く。
 擦れ違う生徒たちの中で、奇妙に敵意の篭った視線を向けてくる上級生に祥子は軽く挨拶をすると、胸を張って通りすぎた。


5.

 優しい猿の王さまは、次々仲間と手をつなぐ。仲間の力で井戸の底。王さまやっと見つけたよ。
 きらきら輝くお月さま。王さまよっと手を伸ばす。

 放課後、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は手ずからお茶の用意をしていた。椅子に座って待っているのは黄と白の薔薇さまだけだ。それぞれの蕾たち、令には体育館に先に行くよう指示を出し、志摩子はダンス部の人たちを迎えに行かせている。祥子には祐巳さんを捕まえるよう言って送り出した。
 蓉子が紅茶を二人と自分の席に置いて、お盆を横に、席に付く。
 鳥居江利子はひとくち紅茶を含み喉を潤した。
「思ったより早く動いたわね」
「気になったんでしょう。ライバルは紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)だもの」
 蓉子の言葉に聖が肩をすくめた。
 江利子が黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブトゥン)、支倉令から、以前、福沢祐巳に姉妹(スール)になることを断わられた2年生がいると聞いたのは昼休みのことだった。令には直ちに閑口令を言い渡すと、当の美子さんなる人物に付いて詳しい話を聞いたのだった。
「麻生美子、2年藤組の家政科部ね。その子が祥子のライバルか」
「ライバルかどうかは、まだ判らないわよ」
「そうね。でも、不思議だわ」「ん?」「なに?」
 蓉子が小首を傾げる。綺麗な髪が流れた。
「祐巳さんよ。上級生の申し出を断わるだなんて、そんなことできる娘のようには思えないのだけど」「ああ、確かに」「そうねぇ」
 蓉子の言葉を考える。上級生が妹となる下級生を指名する姉妹(スール)制度。本来の姉が妹を導くという関係からして、上級生の権限は大きい。そこに妹になることを拒む権利など、ほとんどないのだ。だからこそ、妹になることを拒んだなどということが起きれば、リリアンでは大事件になる。
 だが、正直、彼女たちも福沢祐巳の名前など聞いたことがない。
 つまりそれは、申し出た側が本気でなかったか、当事者たちが徹底的に口を噤んだか、の、どっちかということになる。
 この場合はおそらく・・・。
「でもさ、その美子さんと祐巳さんの接点てなによ?」
 江利子の思索を破るように、聖が問いかける。そう言えば。
「加えて、その美子さんという方、妹はおられないのでしょう? 断わられて別の方を選んだわけでなく、断わって別の姉を受けたわけでもない。
 まるで、千日手のよう」
「ええ」
「・・・つまり、祐巳さんと美子さんは互いを姉妹として受け入れられない。でも、姉や妹という立場に意味がある。
 ふふん、三角関係みたいね」
「というか、そのものずばりでしょうね」
 聖が肩をすくめた。
「そこに割り込んだのが紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)ときたら、新聞部が喜びそうな話だわ」
「・・・まいったわね」
 喜んでいるのはあなたでしょ、と言わんばかりの視線を江利子に向けて、蓉子が溜め息をついた。
「美子さんの(グラン・スール)は誰かしら。そちらにも話をつけておかないと」「あら」
 江利子は意外そうに蓉子を見た。彼女がそれに気付かないとは、よほど困っているのか。
 だから、江利子は親切に蓉子に教えた。楽しそうに笑みを浮かべながら。
「あら、蓉子にしては迂闊ね。妹に振られたことを口外しないよう説得できるのは、姉ぐらいなものでしょう?」
 あっと、そこに思い至ったのか、蓉子が驚いた表情を見せる。聖も眉を潜めた。
「つまり・・・」「そう。美子さんのお姉さまが三番目の角なんじゃないかしら?」

「お姉さま、紅薔薇の蕾の妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン・プティ・スール)のお話、ご存知ですか?」
 放課後の家政科室を訪れた姉に、麻生美子は話し掛けた。大塚菜都実は憮然とした表情を隠すことなく肯く。
「ええ、聞いてるわ。祐巳、ずいぶん困っているみたい」
 声を落として答える。そんな姉の姿に美子は笑いを洩らさないようにするので必死だった。
 崩れそうになる表情を引き締めながら、美子は姉を見上げた。妹である自分のことよりも、平凡で特徴のない少女のことばかり気にしている大好きな姉を。
「あの娘も困っているのなら、私の妹になればよろしいですのに」「!!」
 ぎょっとした顔でお姉さまが美子を振り向く。
 ああ、ようやく私を見てくれた。
 美子はゆっくりと口元を綻ばせる。
「そうすれば、あの娘もずっと一緒にいられますのにね」
 きっとその笑みは暗い。
 美子は自分でそのことを強く自覚した。


6.

 水に溺れるお月様。小さな小さなお月様。
 猿の王様、手を伸ばし、よっとお月様掬いあげる。
 けれども、お月様掬えない。
 伸ばした手には触れられない。

 踊る。踊る。輪になって踊る。
 先ほどまで白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)とステップの練習をしていた祐巳さんが黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブトゥン)をパートナーに群舞を踊っていた。
「それで紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)、私をこの場に呼んだのは、別に練習風景を撮って欲しかったからと言う訳ではないのでしょう?」
 武嶋蔦子はファインダーを覗きこみながら、傍らで指導する紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に問いかけた。
「クス、蔦子さんは話が早くて助かるわ。あなたにいくつか聞きたいことがあるの」
「・・・」
 蔦子はちいさくため息を付いた。
「祐巳さんのことなら私に聞いても無駄ですよ」「ええ、そうでしょうね」
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は微笑むと、手を一つ打って舞踏を止めた。そして、立ち位置やタイミングに指示を出して動きを確認すると、もう一度、はじめからシーンを始めさせる。
 そして、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は再び舞台を見上げる位置に、つまり、蔦子の隣に戻ると、問いかけた。
「あなたは大塚菜都実さんをどう思ってるのかしら?」
 早っ!
 思わず、蔦子は手の中のカメラを取り落としそうになった。
 いや、蔦子も山百合会を率いるお姉さまがたを相手に、いつまでも隠し通せると楽観してはいない。しかし、昨日の今日で菜都実さまとの間柄を、蔦子に聞いてくるとまでは考え至らなかった。
「クスッ、手元がお留守だわ」「・・・」
 蔦子は動揺に震える手からカメラを離した。首元にずっしりとした重量がかかる。
 蔦子は挑むように、そう、全学年のお姉さまである紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に挑むような目で、見上げた。紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は楽しそうに蔦子の答えを待つ。
「菜都実さまとは?」「いえ、まだよ」
 もう菜都実さまと話したのかという蔦子の問いかけに紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は首を振った。
「下手に菜都実さんと話すより、祐巳さんにとって絶対の味方であるあなたに、菜都実さんと美子さんのことを聞いたほうが間違いがない思ったの。
 もっともあなたが話してくれないのなら、直接、お二人の方と話すしかないのだけど」
「・・・賢明です」「ありがとう」
 蔦子の降伏宣言にも似た呟きに、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)はにっこりと微笑んだ。
 こういうところが怖いのよね。
 で、と紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は視線で蔦子の言葉を促す。蔦子は何について答えるべきかを少し考えた。
「菜都実さまのことをどう思うか、ですよね?」「ええ」
 それならば、自信を持って言える。蔦子は強く肯いた。
「嫌いです。あんな方、大っ嫌いです」
 胸を張って強く答える蔦子の姿に、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は小さく目を見張った。


 運動神経があまりよろしくないこの身体。
 黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブトゥン)、支倉令さまに半ば引きずられるようなリードを受けて福沢祐巳は群舞のステップを踏む。
「あ!」「いいから」
 ステップを間違えた祐巳の足が令さまの足を踏んでしまう。令さまは祐巳を抱き抱えるように支え、祐巳の耳に囁いた。
「踏んでも良いように靴を脱いでやってるんだから、もっと気楽に、ね」「はい」
 祐巳は小さく肯いた。
 廻る。くるりと男性、女性の位置が翻る。
 時折、すれ違うダンス部の部員たちの好奇に満ちた視線。祐巳と同じクラスの少女もいる。偶然に視線が重なり、祐巳は彼女と少し照れたような困った表情で目礼を交わした。
 そして、視界の隅であの人が踊っていた。
 誰よりもお姫様に相応しいシンデレラ。存在しない王子様とのステップを一人踏んでいた。
 ただ、ひとりのワルツを。
「よそ見しない!」「あ、はい!」
 令さまの優しい叱責に慌てて祐巳は視線を正面に戻した。令さまはそんな祐巳の様子にくすりと笑みをこぼす。
「祥子のこと、気になる?」「・・・え?」
 意味が判らずきょとんと祐巳は令さまを見上げた。令さまはいたずらっぽい表情を浮かべて祐巳に問いかける。
「・・・いえ。そんな」
 祐巳は言われて、再び視線をあの人に向けた。
「こら!」
 ぽこと令さまはこぶしを祐巳の額に置いた。慌てて顔を戻すと、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と蔦子さんがなにやら言葉を交わしているのが見えた。
「ちゃんと集中して」
 めっと怒ったように令さまが顔をしかめて見せる。祐巳は肯いて、ステップを思い出す。
 踊る。踊る。
 くるくる踊る。
 こうしてずっと踊っていられたら、何にも関わらないで生きてゆけるのかな。
 ステップを踏むことに集中し始めた祐巳に満足そうに令さまが合わせる。
 たどたどしいステップで、足を踏んで、踏まれて、躓きそうになりながら、たとえ、どれほど無様でも、いい。
 脳裏に紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と話す蔦子さんを思い出す。あのことを蔦子さんは話しているのだろうか。
 祐巳は特に隠したいとは思っていない。広まるなら、別にそれでもいい。
 この現実感を喪失した灰色の日々。
 その空虚さが、静けさから、救われたいなんて思わない。
 私は、それでいい。
 でもね、蔦子さん。
 祐巳は口ずさむ。踊りながら、詠いながら。古い昔話を、古井戸に落ちた月を助けだそうとした、猿の物語を。
 井戸の底に落っこちた月を助けようとした猿たちは、みんな溺れて死んじゃうんだよ。



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$Date: 2005/04/03 06:38:53 $