水底の月


第一話 ・・・ 深い淵



1.
 お昼を食べ終わり授業を待つ短い時間。
 どことなく浮ついた空気の残る教室で、福沢祐巳は教室の席に座っていた。先ほどまで一緒にはしゃいでいた同級生の桂さんはすでに自分の席に戻り、午後の授業の準備を始めている。
 そんなあいまいなひとりの時間。授業に専念するには早すぎる。誰かとおしゃべりするには時間がない。そんなひとときを祐巳は愛していた。
 このひとときだけは、誰も祐巳を見ていない。このひとときだけは、祐巳は誰も見ていない。
 空白で壊れきった自分が剥き出しの破片のままでいられるわずかの間。
 それは不意打ちだった。
 カシャ。
「うわぁっ!」
 反応する。過剰なほどに叫んで祐巳は振り向いた。
「ちょっ、蔦子さん」「ふふふ、甘いわね。祐巳さん」
 その先には少し人の悪い笑みを浮かべた自称写真部のエース、武嶋蔦子が片手にカメラを持ってすぐそばに立っていた。
「ちょっと気を抜きすぎなんじゃない?」
 祐巳の肩に手を置いて蔦子が耳元に囁いた。祐巳は明るく首を傾げる。
「って、もう、蔦子さん、先生がお見えになるよ」
 ちょうど祐巳の前の席に座る同級生が振り向いた。
「もう、祐巳さんたら。先ほど自習ですって連絡がありましたでしょう?」
「えええええ!」「「「くすくす…」」」
 大仰に驚く祐巳の周囲で口元を隠した笑い声があがる。祐巳は耳まで真っ赤になりながらあたふたと自習用のプリントを受け取り、自分の分を受け取って後ろに回す。
「つ、蔦子さんたら、人が悪いんだから」
 祐巳は恥ずかしそうに顔を伏せた。照れ隠しに勢いよく椅子に座わりプリントを睨み付ける。
 周囲から祐巳に向けられる暖かな視線に、蔦子は少し目を瞑った。
 なにもなければ、祐巳さんはきっとこういう普通の日々に埋没していけたのだろう。
 蔦子は昔のままの、昔と違う笑顔を浮かべる少女に手を振った。
「それじゃ、私はこれで」「蔦子さん、ありがとうね」「いえいえ」
 昔と変わらないその姿。おどけるように蔦子は首を振る。
 たとえ、偽りの笑顔と知りつつも、蔦子は祐巳の示す気遣いに、昔の彼女の面影を見つける。
 それは夕暮れの空に映る幽かな残照のようで、蔦子は大切に思わずにはいられなかった。



2.

 彼女のことを目で追うようになったのはいつの頃からだろう。
 藤堂志摩子は自習のために配られたプリントを手に、穏やかな笑い声があがる方を振り返る。その笑顔の真ん中に彼女がいる。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、渡されたプリントを後ろに回していた。
 志摩子はクスリと笑みを零す。そのとき、彼女から離れようとしていたメガネをかけた少女、蔦子さんがこちらを向いた。ガラス越しの視線がなぜか志摩子と絡み合う。志摩子は軽く会釈をしようとするが、蔦子さんの表情の硬さに覚えず戸惑ってしまった。
 志摩子のとまどいが伝わったのだろうか。
 蔦子さんはすぐにいつもの笑みを浮かべて会釈を返した。あいまいな笑みで志摩子も答える。
 席に戻る蔦子さんから、彼女、福沢祐巳さんに目を戻す。頭を抱えて一生懸命な彼女の姿に憶えず微笑みを浮かべてしまう。
 なぜ、祐巳さんのことがこんなに気になるのだろう。
 自分に問いかけてみる。
 この感覚は、(グラン・スール)である白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)、佐藤聖さまに対して感じた鏡に向かい合うような同質感ではない。あえて言うならば、孤独、に近い。寂寥感とも言うべきものだろうか。
 でも、それはもしかしたら、私の誤解かもしれない。祐巳さんは私と違って、誰とでも気さくに仲良くなれる、孤独には無縁の人だというのに。
 私とは違う人、だというのに、志摩子には時折、祐巳さんがとても遠く感じられた。あんなに楽しそうなのに、あんなに友達と仲良くお話をしているというのに、あんなに笑っているのに、総てが彼女に届かない。
 まるで、彼女だけが分厚いガラスの向こうにいるようなそんな違和感を覚える。
 馬鹿馬鹿しい。
 志摩子は小さく頭を振った。ウェーブのかかった柔らかな髪がそれにあわせて揺れる。
 きっと勘違いに決まっている。それはきっと志摩子自身が感じている同級生に対しての壁なんだと、それを祐巳さんに投影しているだけなんだと自分自身に言い聞かせる。
 だから、志摩子はそんな彼女の様子を用心深く見つめる視線に、気づいていなかった。



3.

 朝は辛い。
 お姉様にはよく「祥子は車で通わないと無事にリリアンまで登校できるか心配だわ」と笑われてしまうけれど、本当は私自身もそれを心配している。
 ただ、それをお姉様以外の他人に言われるのは癇に触る。
 かけられる声という声に、反射的に「ごきげんよう」と言葉を返す。
 わかるのは人型の形が、私に挨拶をしているのだという現象。
 そんな私を「気難しく人見知りが激しい」と噂する方々もおられるようだけど、誤解だと伝えたい。
 朝はぼうっとして頭が働いていないから、目に見えた画像を知人と認識するまでに、いくぶん時間がかかる。そして、身体は機械的に動き続けているため、さきほどの人影は誰だったかと思い至ったときには、もうずいぶんと通り過ぎてしまっているだけなのだ。
 以前、こんなことがあった。車が混雑に巻き込まれて少し遅れてしまったときのこと。気持ち急ぎながら、いつものように頭の働いていない状態で正門をくぐったとき、挨拶をしてきた下級生の一人に制服のタイがだらしなく弛んでいた生徒がいた。私はそのときよくわからずに通り過ぎていたが、後ほど頭がはっきりすると、彼女を注意するべきだと思い出したのだ。
 しかし、相手は下級生。いまさらながらに呼びつけて身なりを整えるよう注意するなど、まるでいじめのようではないか。
 私はその生徒が気に病むことないよう、彼女の(グラン・スール)(プティ・スール)のタイがほどけていたことを告げ、学校で一度身なりを整えるように指導するよう伝えたのだ。
 それが、いつの間にか、私の厳しさを示すエピソードとして、まことしやかに囁かれるのは、まったくもって不本意だった。
 もっとも、お姉様以外の誰が誤解しようとどうでもよかったが。
 マリア像が見える。
 最近、お姉様から(プティ・スール)を作るようにとの圧力が激しい。できれば、もう少し、このままでいたい。その願いを叶えて頂けるよう祈ろうと、マリア像を見上げたその時。

 なぜか、彼女の姿がはっきりと見えた。

 小さな背中。空白の表情で白亜のマリア様に祈るその姿に、視線が吸い寄せられる。
 髪型をツインテールに纏め、無心に祈る横顔。私の視線はマリア様を祈るようで、ただ、その少女に釘付けになっていた。
 どうして、私はこの娘のことを見つめているのだろう。
 その横顔は、あのときの白薔薇の蕾(ロサ・ギガンティア・アン・ブトゥン)、今の白薔薇様(ロサ・ギガンティア)を思わせるように透明で、でも、それ以上に空白な、白痴にも似た欠落を感じさせる。
 なぜ、生きていられるの?
 純粋に疑問に思う。そして、はっと我に返った。これではまるで私がこの娘を呪っているようではないか。
 彼女がマリア像の前を続く生徒に譲る。続く生徒に振り返る眩いばかりの笑顔。
 でもきっとそれは偽りの光でしかなくて・・・。
「お待ちなさい」
 その背中に私は知らずに声をかけていた。
「はい―――」
 彼女は私に振り返ると、挨拶をしようと口を広げて凍り付いていた。
 ・・・何か、私は大きな間違いを犯したような気がしていた。
 彼女は状況が理解できずに凍り付いているようだ。ここは上級生たる私が、手本を示さなくてはならない。
 でも、そこまで考えて困った。私はなぜこの少女を呼び止めたのだろう。
「あの・・・、私にご用でしょうか」
 用事などない。接点もない。関係ない。
 でも、上級生としてのプライドにかけて、そんなこと悟られるわけにはいかない。
 突きつけられる断絶に、私は少女に理由を探す。だが、すぐに諦めた。彼女は私を見てぽかーんと口を開けたまま、反応を示さない。
 ふと、私の視線が彼女のタイに止まった。
 それは気にするまでもないこと。普段から黄薔薇様(ロサ・フェティダ)の美しく整えられたタイを見慣れている私だからこそ気が付いたこと。
「呼び止めたのは私で、その相手はあなた。間違いなくってよ」
 ようやく調子が戻った。少女は目を白黒させている。その表情の移り変わりの激しさに、私は追いつめられた小動物の姿を思い浮かべた。
「持って」
 自分の持つ鞄を渡して両手をあける。きょとんとした表情で彼女は受けとった。
 よし。勝った。
 なんとなく心の中でガッツポーズをして、私は彼女の制服の襟に手を伸ばした。息がかかるほどに、互いの顔が接する。その一瞬、私を見つめる瞳に総てに絶望したかのような空虚な断絶を示して、彼女が目を閉じた。
 その彼女自身を苛むような絶望が、私の心を深く貫く。
「・・・タイが、曲がっていてよ」「え!?」
 心地よい痛み。私はなぜか自分の心に、触れる指先が傷ついて行くような感触を感じながら、彼女を包むように腕を回し、制服の襟の下からタイを整える。
 少女の視線が私に突き刺さる。
 それはきっと彼女の本当の心。
 絶望し続ける現実に擦り寄る甘い希望。でも、この少女にとって、希望はいつも絶望という深い棘を纏っているのだと、想う。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
 ああ。私はなんて言葉が足りないのか。
 このときばかりは、何よりも自分が温室育ちであることを痛感する。
 違う。伝えたいことはそんなことじゃない。
「はい」
 鞄を受けとる。
 少女はそれまでのあえぐような、求めるような、羨望するような色の瞳を隠し、頭を垂れた。
 違う。私がしたいことはそんなことじゃない!
「ごきげんよう」
 抱きしめてあげたかった。
 私は誰よりもあなたの味方だと、その場に正座させて小一時間ばかり懇々と説き伏せてあげたかった。
 でも、彼女の抱いている絶望を前に、そんな言葉などかけらも届かないことを実感させられた。
 私には、私のプライドを守るために、せめてその場は少女にとって潔い先輩の姿を見せる以外、なにもなかった。
「ごきげんよう」
 挨拶の言葉を残して立ち去る。
 それが、自分の弱さであるということを、私は誰に指摘されるまでもなく感じ続けていた。
 私は、あのなにもない少女以上に無力だった。



4.

 あの美しい人が去っていく。
 私は自分の淡い期待を罵倒する。逃げ場のないほど、徹底的に、幾重にも幾重にも自分を鞭打つ言葉を重ねる。
 ああ、リリアン女学園全校生徒の憧れの的、紅薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブトゥン)がこの私に声をかけるなんて、なんて残酷で気まぐれな方なんだろう。
 なんとなく気分を高揚させるために、そんな適当なことを呟いてみる。自然と、皮肉な笑みが浮かぶのを感じた。

 期待しなければ笑い飛ばすことができる。
 信じなければ裏切られない。
 夢を見なければ悲しくない。

 いろいろと気まぐれの理由を考えることは難しくない。でも、考えたくない。期待するのは、痛い。
 私には今目の前に広がる世界に怯えて生きていくだけで、精一杯だった。
 通り過ぎる人々に、ごきげんようと挨拶をする。
 辛い。
 人と接するのは痛い。
 視線を交わし言葉を交わし微笑み頷く。繰り返し、繰り返し、繰り返す。
 教室に近づくにつれて交わす言葉の密度は濃くなっていく。
 それに反比例するように、石のように重く硬く沈んでいく心。
 私は教室の扉を開くとひときわ大きな声で告げた。
「ごきげんよう」
 さぁ、朝だ。
 今日も茶番を続けよう。


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$Date: 2004/11/13 03:56:24 $