水底の月
終幕...そして、開演
1. 「夢見」
「ねぇ、祐巳。あなた高等部に上がったら、私の妹におなりなさいな」
「へっ?」
突然の言葉に福沢祐巳は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「クスクス…。まったく、祐巳ったら変な声を上げて」
彼女が楽しそうに口元を隠して笑う。彼女、大塚菜都実さまは祐巳の2年上の先輩だ。祐巳は中等部の自由科目に服飾の科目を選択している。この自由科目はいろいろな過程を1年から3年が一緒になって1年間学んでいく。授業時間を利用したクラブ活動のようなものだ。
服飾を選んだ生徒は多い。だから、クラスは二つを使っての実習となる。
正直、なんて気の早いと思ったのは秘密だ。
奈津実さまは気っぷのいい親分肌の先輩だ。祐巳にも何くれとなく世話をしてくれる。人気の先輩の一人だった。そんな気さくな先輩の趣味が手芸という、そのギャップに思わず笑いを零したことが、祐巳にはあった。
季節はすでに初春を迎え、三年生は高等部への進学に気もそぞろだ。奈津実さまもリリアンの高等部に進学される。どうやら、手芸部に入るつもりらしく、いろいろと高等部の先輩方の話を祐巳にしてくれる。祐巳もやがて高等部に上がる。そこからひょんな拍子で初めの言葉に繋がっていた。
「えーっと、妹ですか? 私には弟がいますけど」
「違うわよ、祐巳さん。奈津実さまがおっしゃっているのは
姉妹制度のこと。祐巳さん知らないの?」
「・・・」
隣で針を片手に四苦八苦している蔦子さんが口を挟んだ。祐巳はきょとんとした表情で首を横に振る。ようやく中等部になじんだ頃である。時々、他の生徒たちが『お姉様』を話題にはしゃいでいるのを聞いたことはあるけれど、なんでお姉様なんだろう?、と思った程度だ。祐巳は確かに幼稚舎からリリアン女学園に通っているが、それぞれの学部で手一杯になってしまって、高等部の話はあまり知らなかった。
「それは構いませんけど、まだまだ先の話ですよ?」「こういうことは先手必勝なのよ」
首を傾げて答える祐巳に奈津実さまがウィンクする。こういうところが格好良くて、奈津実さまは人気があるのだ。
「はぁ、そんなものですか?」「そんなものよ」
「ちょ、ちょっと祐巳さん。そんな簡単に決めてしまっていいの?」
逆に、蔦子さんが慌てて問いかける。祐巳はなんで蔦子さんはそんなに慌ててるんだろう、と不思議に思いながら、蔦子さんを見上げた。
「え? どうして?」「どうしてって。祐巳さん。
姉妹制度は婚姻と同じなのよ。一度ロザリオを受け取ったらそう簡単に返せないのよ」
「返されても困るわよ」
奈津実さまが苦笑した。
「きっと、私たち、いい
姉妹になれると思うわ」
それはちょっとした約束。
無邪気だった私の、かつて見た夢。
2. 「空白」
時は巡る。
奈津実さまが中等部を卒業されて一年が過ぎ、煌めく季節が訪れる。
衣替えも過ぎた頃、真美さんとなにやらお話ししていた蔦子さんが祐巳を見て顔色を変えた。
「ん? 蔦子さん、どうしたの?」「えーっと・・・」「それじゃ、蔦子さん。また」
真美さんが祐巳と蔦子さんに挨拶をして奇妙にこそこそと離れる。蔦子さんはしまったという顔をして真美さんを見送った。口の中でなにやら逃げられたとか、呟いている。
「もしかして、私、お邪魔しちゃった?」「いいえ、そう言う訳じゃないんだけど」
言いにくそうに蔦子さんが顔を背ける。
「あのね、祐巳さん。落ち着いて聞いてね」
蔦子さんが気遣わしげに祐巳に告げた。
「菜都実さまが
妹を選ばれたらしいの」
「・・・え?」
「あんまり驚かないのね」「ううん」
祐巳の態度に蔦子さんが首を傾げた。それに首を振って否定する。
「驚いているんだけど、まだ、内容を理解していないの」「そっかぁ…」
あははと二人して笑う。
「って、奈津実さまが!」「そう、それよ。私が待っていたのは」
祐巳はようやくびっくりした表情で蔦子さんを見つめた。蔦子さんが感慨深げに両腕をくんで頷く。
「お、お・・・」「お相手は同じ手芸部の後輩の麻生美子さま」
「こ、こ・・・」「告白はマリア像の前で。美子さまの痛烈なアタックに押し切られたってことが真相のようだわ」
「そ、そ・・・」「そこまでよくわかるわねって? 写真部がらみで高等部の新聞部とツテがあるの」
祐巳は大きく深呼吸してみせる。
「そっか、蔦子さん、高等部に行ったら写真部にはいるって言ってたもんね」「そう」
そう言って蔦子さんは指で四角いファインダーを作ってみせると、祐巳をそのフレームに納めた。
「目指せ、写真部のエースなのだ」「・・・そうだね。蔦子さんならきっとすぐなれるよ」
祐巳は感慨深げに頷いた。照れたように蔦子さんが髪をかき上げる。そして、蔦子さんはちらりと祐巳を見た。やっぱり本調子じゃないんだろうか。
「よかった。それほどショックを受けたって様子はないわね」
「ううん。そんなことないよ。きっと、今は実感がわいてないだけ。それにここのところ奈津実さまともお会いしていないし、心が離れていくのは仕方ないことだから」
祐巳はどことなく現実感なさそうに自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「だからきっと、笑って祝福できると…あれ?」
ぽろりと涙が零れる。そんなはずじゃない。そんなつもりじゃないのに。
なぜ、涙が止まらないんだろう。
「ああの、祐巳さん、ごめんなさい。無神経なこと言って」「・・・」
首を振る。
蔦子さんのせいじゃない。きっとそれほどショックが大きい訳じゃない。でも止まらなかった。涙が止まらなかった。
奈津実さまは、祐巳のことを認めてくれた初めての人だった。祐巳のことを妹にしたいといってくれたほどに、祐巳のことをわかってくれた人だった。
だから、祝福したい。
そんな素敵な奈津実さまが、祐巳との約束を破るほどに大切な誰かを見つけたことを、祝福してあげたかったのに。
蔦子さんを困らせちゃっている。蔦子さんはもう諦めたように祐巳の肩を抱きしめるとハンカチを手に祐巳の顔を拭いてくれた。
「ごめんなさい、蔦子さん」「ううん」
言葉とともに微かに首を振る気配。
祐巳はいいやと思ってしまった。いっぱい甘えてしまおう。そして、奈津実さまに笑顔で祝福するのだ。
だから、今は、蔦子さんに甘えて、いっぱい泣いてしまおうと、思った。
3. 「衝撃」
コノヒトハイッタイナニヲイッテイルノダロウ?
「だから、祐巳が心配する必要は全然ないのよ」
「はぁ…」
祐巳には菜都実さまがなにを言っているのかわからなかった。
私はただ、菜都実さまにお祝いを言いに来ただけなのに。
「あ、でも、美子さまはそのことを?」
「もう、そんなの秘密に決まってるでしょ?」
祐巳はうっかり者ね。菜都実さまはそういってクスクスと声を上げて笑った。
蔦子さんの手引きで高等部に潜入した祐巳は奈津実さまの姿を探していた。
蔦子さんはなにやら二股だの裏切りだのと憤慨していたけれど、人の気持ちなのだから一年半の間に変わることだってある。
祐巳だって、じゃあ半年後に奈津実さまのロザリオを受け取ることができるのかと言われたら、そう言う約束だったから、ということになるだろう。
私でなければ、あなたでなければ。
そんな関係には憧れるけれど、私、福沢祐巳は何につけても平均点。そんな、誰かのただ一人になんてなれっこないって、わかっている。
そう。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている・・・。
だからいいのだ。
心変わりしたのなら、そう言ってくれれば。
ただ一人の人を見つけたのなら、そう言ってくれれば。
ちょっと泣いてしまうかもしれないけど、きっと笑って祝福できる。
幾度となくシミュレートして、お祝いの言葉を考えて、ちょっと泣いて、ここまで来たのに。
なぜこの人は人を惑わす言葉をはけるのだろう?
「祐巳が高等部に入学したら、改めて私がロザリオを渡すわね。一年間しか一緒にいられないけど、いっぱい思い出を作りましょう? あなたの姉にふさわしいのはきっと私しかいないんだから」
胸を張って、誇らしげに、輝くばかりの笑顔で奈津実さまが告げる。
「だからね、これは私たちだけの秘密。美子には悪いことをしたと思ってるけど、人を想う気持ちは裏切れないもの」
胸に手を当てて奈津実さまが言う。
でも、奈津実さま。あなたは今、美子さまに嘘をついているのではありませんか?
美子さまの奈津実さまを思う気持ちを裏切っているのではありませんか?
言葉が出ない。
伝えたいのに、もどかしい。ぐるぐると、ぐるぐると、問いかけたい言葉だけが頭の中でいっぱいいっぱいになって、言葉にできない。
「美子がどうしても一緒にいたいって言うから、半年間だけって約束なんだから。
祐巳が気に病むことなんてなんにもないのよ」
奈津実さまがそう言って祐巳を抱きしめる。
いつもなら暖かくて大きな気持ちになれるのに。
なぜだろう。鳥肌が立ちそうなほどに、嫌悪感が募る。
人と触れあうことに吐き気すら覚えた。
じゃあね、と軽く手を挙げて、見つからないようにね、とウィンクまでされて、奈津実さまが立ち去る。
祐巳はその後ろ姿を見送りながら、一緒に来ていた蔦子さんに話しかけた。
「ねぇ、蔦子さん・・・」「何?」
たぶん、すごく青い顔をしているんだと思う。蔦子さんが気遣わしげに祐巳の顔を覗き込んだ。
「あの人達にとって、姉妹ってなんなの? そんなに簡単に、服を着替えるように取り替えのきくモノなの?
だったら、だったら、私、そんなモノになりたくない…」
4. 「欠片」
その人はおっとりとした口調で祐巳に話しかけてきた。
「あなたが祐巳さんね」
「はい!? ごきげんよう」
見慣れぬ高等部の制服。細身のリボンで前を止める中等部の制服と違って、タイで前を留めている。少し、ゆっくりした印象の、物腰の柔らかな上級生だった。ただ、その表情はどこか不安そうで、追いつめられたような感じが漂っていた。
「いきなりで、ごめんなさい。私、高等部一年李組の麻生美子と申しますの」
「あ、中等部三年桃組の福沢祐巳です」
胸に手を当てて自己紹介する美子さまに祐巳は慌ててぴょんと頭を下げた。そんな祐巳の仕草に美子さまは小さく笑みを漏らした。
「祐巳さんは可愛らしい方ね」「へ?」
「お姉さまが可愛がられておられるのもわかりますわ。ええ、そうですわね。やっぱり」「??」
美子さまは自分自身に何かを言い聞かせるように納得している。正直、祐巳には美子さまが何を言っているのか意味がわからなかった。
そんな祐巳に美子さまが笑顔を向けた。
「あなた、私の妹にならないかしら?」
「あの・・・、それはいったい?」
「ふふふ、わからないかしら?」
美子さまは含み笑いと共に祐巳の肩に柔らかな手を置いた。
「私の妹になれば、お姉さまと、菜都実お姉さまと一緒にいられますのよ」
背筋がぞくりとした。
肩に置かれた手が、なぜか冷たく、そして、祐巳を逃さないように捕らえているのだと感じた。
でも、逆にそれが美子さまの人間味を祐巳に伝えてくれる。彼女も必死なのだ。お姉さまの、菜都実さまを失わないために、必死になって私を利用しようとしているんだと、わかる。
これが
姉妹制度なのだろうか。
姉妹とは、こんなに人を醜くする制度なのだろうか。
祐巳は気分が悪くなって、顔が青ざめる。嫌悪感に吐き気がする。
どう答えればいいのだろうか。
どう拒絶すればいいのだろうか。
「えっと、私は、そのぉ・・・」
言葉に困って祐巳はきょろきょろと落ちつきなく目を泳がせる。そんな祐巳の姿が可笑しいのか、美子さまは口元に手を当てて笑い声を押し殺した。
「どう、かしら?」
「美子! 何をやっているのかしら?」「祐巳さん!」
振り向く。
そこには奈津実さまと、息を弾ませた蔦子さんがいた。
「お姉さま…」
言葉をなくした美子さんが奈津実さまを見上げる。そして、美子さまの視界から祐巳の姿を隠すように、奈津実さまが祐巳の前に割り込んだ。その凛とした背中を祐巳が見上げる。と、横から蔦子さんが祐巳を腕を引っ張った。
「祐巳さん、こっちへ」「行きなさい」
振り向くことなく奈津実さまが告げる。
祐巳は真っ青になりながらも、蔦子さんに曳かれて行く。
でも、限界だった。
祐巳は手近な手洗いに駆け込むと、吐いた。蔦子さんがそんな祐巳の背をゆっくりと撫でてくれる。そんな親友の心遣いに感謝しながらも、祐巳は何もかも躯の中から絞り出してしまうように吐き続けた。
5. 「晶砂」
「祐巳さん、ご入学おめでとう」
入学証書を左手に抱えた祐巳にその上級生は声をかけてきた。
「美子さま、ありがとうございます」
祐巳ははっと顔を上げる。そこには、菜都実さまの妹である麻生美子さまが微笑んでいた。
「祐巳さん…」
彼女に気が付いた蔦子がそっと祐巳に歩み寄る。それを祐巳は視線で止めた。祐巳はにこやかに美子の元に歩み寄る。
「以前のお話、覚えていていただけたかしら?」
「えーっと、なんのお話でしたでしょうか?」
祐巳が頬に右の人差し指を当てて首を傾げた。美子が少し眉根を寄せた。
「私の妹になるお話のこと。どう? 考えていただけたかしら。祐巳さんにとってもいい話だと思いますのよ」
「ああ、あの話のことですか…」
はっと思い出したかのように祐巳は顔を上げて美子の瞳を覗き込んだ。何となく、よくできたガラス玉を覗き込んだような気がして、美子は我知らず後ずさっていた。
祐巳が哀しげな顔をして面を伏せた。
「せっかくの申し出ですけど、私、あの
姉妹とかまだ早いと思うんです。高等部に上がったばかりですし」
あたふたと、祐巳が答えるのをなぜか満足そうに美子が微笑んだ。
「そう、残念。あなたとならいい姉妹になれると思うのだけど」「は、はぁ…」
祐巳が恐縮したように頭を下げる。
美子はそんな祐巳の様子をじっと観察するように見つめると背を向けた。
「それでは、また。ごきげんよう」「あ、はい。ごきげんよう」「・・・」
「ねぇ、蔦子さん」
立ち去る美子さまの後ろ姿を目で追いかけながら、祐巳はすぐそばにいる友人に話しかけた。
「この茶番劇いつになったら終われるのかなぁ…」
「・・・」
朗らかに笑みを浮かべる祐巳の横顔に、蔦子はただ言葉なく立ち尽くすだけだった。
$Revision: 1.2 $
$Date: 2005/01/28 07:29:29 $