早咲きの薔薇(rosa precoce)

Code of Rose : the Second season.


薔薇は舞い降りた


1.

 桜舞うあの場所で。
 彼女が言う。
「志摩子さんが本当に望むのなら。私は志摩子さんが栞さまのようにシスターになるために、学校を変わっても構わないって思う。
 でもね、志摩子さん。
 私はこの場所にいることを、私の意志で選んだよ。
 志摩子さんは違った?」
 笑う。
 なにも心配することなんてない。
 そう伝える彼女の綺麗な笑顔に私は思わず魅入ってしまいそうになる。
 胸が痛む。
 私は純粋なこの人の隣にいても良いのだろうか。
 疑問が不安が私の心を苛む。
 私に彼女の隣にいる資格があるのだろうか。
「でも、それじゃあ、祐巳さんに申し訳ないわ」
 私はなんとか彼女に言った。彼女はからりと日の差すような笑顔で首を振る。
「志摩子さんがなにかに悩んでいることは知ってるよ。志摩子さんが悩んでいることは、きっと志摩子さんにとって大切なことで、私なんかじゃ力になれないかもしれないけど。
 私は大丈夫。
 だから、志摩子さんがなにかの犠牲になる必要なんてない。志摩子さんが気に病むことなんてない。
 私たちは友達なんだもん。いつかこの学び舎を巣立っても、それは変わらないよ」
「祐巳さん、私は・・・」
 胸が熱くなる。私はこみ上げて来る涙を堪えきれなかった。そんな私の手を彼女は両手で包んで静かに見つめている。
「私は蓉子さまの手を取って、志摩子さんや山百合会のみんなと仲良しになって、一緒にやっていきたいと思った。
 だから、私は紅薔薇であることを選んだよ。
 私は志摩子さんと一緒にやっていきたい。でも、それが志摩子さんにとって苦痛なら、重荷になるなら、やめてもいいんだよ。
 大丈夫。志摩子さんが悩んで出した結論を誰にも汚させないから。
 だから、私待ってるね。志摩子さんを待ってる。
 えへへ・・・」
 彼女はそう言ってぺろりと舌を出す。そして私が泣きやむと、照れたように笑って振り向いた。二三歩と離れていく後ろ姿が見上げるのは桜。
 風に揺れ、舞い散る花吹雪の中、消え入りそうな小さな背中が遠くて、ただ哀しかった。


2.

 教室は朝から針のむしろだった。
 二条乃梨子は集まる視線にぐっと負けん気を奮い起こす。その両肩をがっしりと捕まえる手があった。
「ふ、ふふふ・・・。乃梨子さ〜ん、裏切りましたわねぇ」
「ちょ、瞳子」
 振り返る先に、妙に座った目つきで松平瞳子が背後から乃梨子の肩を押さえていた。その両サイドのドリルが気持ち回転しているような気がするのは果たして目の錯覚か。
 うっわー・・・。
 乃梨子は瞳子の表情に半ば引きながらも、なんとか問いかけることに成功する。
「瞳子、どうしたの?」
「どうもこうもありませんわ! 乃梨子さんたら、いつの間に紅薔薇さまに懐柔されたんですの!?」
 そっちかよ!
 突っ込みたくなる気持ちをぐっと押さえて乃梨子は首を振った。周囲から興味津々といった様子で視線が集まる。
「別に懐柔されたとかじゃないよ。昨日、黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)が放課後、薔薇さまがたを探していたの。
 私は偶然、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を見つけて、そこに紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を探しに来ただけ。
 だから、もし他の人が白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を探し出していたら、きっとその人がかわら版の話題の人になってたよ」
 周りに聞こえるよう告げる。互いに目を見交わして話しあう無邪気な少女たちの姿に乃梨子は正直うんざりとしながらも肩をすくめて見せた。
「だったら、よろしいのですけど」
 あまり納得していない様子で瞳子が腕を組む。
「でも、私、乃梨子さんなら白薔薇さまにお似合いだと思いますのよ」「あら、私は紅薔薇さまも」「・・・」
 邪気のない様子で乃梨子を話題に盛り上がる周囲に乃梨子は抜け出そうと試みる。
「あら、薔薇さまがたよ」
 でも、その言葉に思わず振り向いた自分が、少しリリアンに染まってしまったようで哀しかった。

「こんなものね」
 上がりこんだのは勝手知ったる従姉妹の部屋。島津由乃はベッドの上に転がって、自作のシナリオをノートに書き記していた。
「あとはアドリブと小技の利く下級生を調達できるといいけど」
 支倉令が紅茶とケーキをお盆に載せて、部屋の扉を開けた。
「由乃、やっぱり祐巳ちゃんと相談しない?」
「駄目!」
 しかし、即座に由乃に否定される。
「祐巳さんは志摩子さんを甘やかしすぎだもの。きっと騙しきれなくて打ち明けちゃうわ!」「祐巳ちゃんだと、そうかなぁ」「そうよ」
 がばっと布団に手をついて由乃が起きあがる。
「今日だって、志摩子さんを庇ってばかり。
 そりゃ、お姉さまがいなくて寂しい気持ちや実家の事情もわかるけど、聖さまならすぐ大学部にいるんだし、会う気になればいつだって会えるでしょ。
 むしろ、今、本当に危ないのは祐巳さんだって気がするの」
「で、由乃は祐巳ちゃんに構ってもらえなくて寂しい?」
「もう、そうじゃないわ。もしかしたら、祐巳さん、来年の山百合会幹部選挙に出ないかも」「・・・それはあるかもね」
 令はテーブルの上にお茶の用意をして由乃に紅茶のカップを渡す。由乃は足を前に送ってベッドに腰かけた。
「私は3年になっても祐巳さんとやっていきたい。でも、このままじゃ・・・。だから、志摩子さんにはもっとしっかりして欲しいの」「・・・」
 両手でそっと紅茶のカップを持ち、喉を潤す。
 令はそんな由乃の様子を静かに見守っていたが、落ち着いた様子を見て口を開いた。
「祥子の方から、あの一年生に手伝ってもらえるよう連絡したから、来週はちょっと賑やかになるかな」
「私はあの娘のこと、どうも苦手ね。ほんとに大丈夫なの?」「うーん・・・」
 令は苦笑した。由乃にはもう少し交友関係の幅を広げて欲しいと思う。
 まぁ、一騒ぎあるかもしれないけれど、祐巳ちゃんがいるから大丈夫だろうと考えて、令は自分も結局あの少女に頼っているのだと意識しないではいられなかった。


3.

 彼女は焦っていた。
「あなたがあまりにも楽しそうだったから、思わず撮っちゃったわ」
 武嶋蔦子さまはカメラを片手に笑顔で近づく。
 どうしよう。
 このまま蔦子さまが近づけばきっと気付く。
 眠りながら涙を流すあの人に、きっと気がついてしまうだろう。
「あ、あの蔦子さま。ここではなんですから、あの」
「あら、私はここのほうが都合がいいのよ」
 わたわたと場所を変えようとする彼女に、カメラを手にした蔦子さまがにんまりと笑みを浮かべた。
「と、まぁ、あまり下級生をいじめるのはよくないわね。
 わかってるわ。そこが祐巳さんの隠れ場所ってこと」
「え!!」
 見られた!
 彼女は一瞬冷や汗をかく。でも、すぐに思い至った。蔦子さまは祐巳さまの友人で、写真部のエース。祐巳さまのお気に入りの場所を知らないわけがない。
 その前でおたおたしている下級生が入るとすれば、それはきっと・・・。
「何を見たの?」
 蔦子さまは問いかける。
 でも、その表情は今までのどこか余裕のある笑みと違って、眼鏡の奥から真剣な眼差しが彼女を捕らえていた。
 答えられない。
 蔦子さまはふっと息を吐くと、表情を和らげて肩をすくめて見せた。
「ごめんなさい。あなたはいろいろと言いふらすような子じゃないものね」
 彼女はぺこりと頭を下げた。
「すみません」「いいのよ。祐巳さんを守ってくれたのでしょ?」
 こんなに慕ってくれる下級生がいて祐巳さんも幸せね。
 蔦子さまが笑う。彼女の人形のように整った顔にさっと朱がさした。
 その傍に立って、蔦子さまは自然に祐巳さまの眠るベンチに顔を向けた。あまりに自然な動作に彼女もつられて振り向く。
 あ・・・。
 彼女はあっさりとガードを破られたことにがっくりと肩を落とした。蔦子さまはそのまま祐巳さまの傍らに立つ。その視線は静かに眠る祐巳さまに向けられたまま。手にしているカメラを向ける気配もない。
 彼女はほっと心の中で胸を撫で下ろす。
 撮るべきものを撮る。
 それはきっと蔦子さまの誇りだ。
 そっと蔦子さまが指を伸ばして、祐巳さまの額にかかる髪を梳いて避けた。
「みんなは祐巳さんをいつも明るく元気いっぱいで、おっちょこちょいだけどガッツがある、そんな紅薔薇さまだと思ってるんだろうけど・・・。印象変わった?」「・・・いいえ」
 視線を動かすことなく問いかける。その背中に彼女は首を振った。
「そう」
 蔦子さまは一瞬振りかえって思わずドキッとしてしまいそうな魅力的な笑みを見せる。
「祐巳さんは知らない。自分が泣いていたことなんて。
 目を覚ましたとき、彼女は辛かったことなんて憶えていない。そして、当たり前のように笑うの。
 辛いことなんてなにもないって。
 そんなはず、ないのにね」
 春、いまだ冷たい空気を意識する。
 辛くないはずはない。でも、祐巳さまは認めない。頑張って、頑張って。例え倒れても受け入れられない。
 自分が辛いということ、それを認めてしまったら耐えられなくなってしまうから。
「・・ん?」
 蔦子さまと彼女の視線の先に眠る少女が身じろぎをする。瞼をこすり、涙を振り払う。
 その姿があまりにも自然で、哀しいと思う。
「祐巳さん、こんなところで寝てると風邪を引くわよ?」「わっ!! 蔦子さん、見てたんだ」
 呆れるようにいつもの調子で蔦子さまが答える。祐巳さまは慌てて起きあがった。その視線が彼女に向けられる。彼女はぺこりと頭を下げた。
「ごきげんよう、祐巳さま。あの、黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)が探しておられましたよ」「え、ほんと! わぁ・・・」
 祐巳さまはちらりと細い左腕の華奢な銀の腕時計に視線を落とす。そして、どうしようと慌てるように表情を変えた。
 ああ、これが噂の百面相。
「祐巳さん、落ち着きなさい。まずは顔でも洗ってさっぱりしてきたら? それから、白薔薇さまならいつもの場所にいたわよ」
「ありがとう、蔦子さん」
 祐巳さまはぱっと笑顔に変わる。ああ、きっと白薔薇さまと一緒に怒られるつもりなんだろう、とわかる。蔦子さまがそのあまりにもわかりやすい考えに笑みを浮かべた。
「ええっと、笙子ちゃん、だったよね。ありがとう」
 不意打ちだった。祐巳さまはぱっと心に染み込むような笑顔で彼女、内藤笙子を振り向く。顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。
「い、いいえ。その、名前を・・・」「うん。あの面白い娘たちと一緒に薔薇の館に来てたよね。他にも――」「祐巳さん、時間いいの?」「わっ、きっと由乃さん怒ってる」
 意味ありげに蔦子さまに視線を向けた祐巳さまに、表情一つ変えずに蔦子さまが訊ねた。祐巳さまはスカートを手でさっと払うと、慌てて歩き出す。
「それじゃ、蔦子さん。ごゆっくり」「はいはい。ちゃんと顔洗っていなさいよ」「笙子ちゃんもごきげんよう」「ごきげんよう、祐巳さま」
 慌ただしく立ち去る祐巳さまを見送る。蔦子さまはやれやれといった様子で腰に手を当てた。
「まったく、人の心配してる場合じゃないでしょうに」
「でも、とても強い方です」
 笙子は確信と共に答える。蔦子さまの視線を横顔に感じながら、笙子の視線はもう見えない背中を追いつづけた。


4.

 思えば苦悩の1週間だった。
 二条乃梨子は敵中深く降下して、友軍の助けもないまま戦いつづけた。
 敵は純粋培養のお嬢さま。
 無垢な笑顔と善意の申し出の数々に、逆の意味で辛い日々だった。特に・・・。
 嫌なことを思いだしかけて、乃梨子はふっと疲れた笑みをこぼした。
 止めだ。
 今日はそんな日じゃない。久しぶりの休みは小萬寺で貴重なミロク像を見せてもらうのだから。タクヤ君から聞いた通り、小萬寺の住職は明るく話しがわかる方だった。
 だから。
「お父さま、弥勒像をお持ちしました」
 ここで桜の下のマリア様と出会うなんて思っていなかった。

 目の前にはあの少女が『ビスケットのような』と称した扉がある。外からこの部屋に人影があることはすでに確認していた。それでも、この扉をノックするのには少し勇気が必要だった。
「はい。どうぞ?」
 ノックの音に応えたのは、あの少女の声。
 鵜沢美冬は少しだけ覚悟を決めて扉を開いた。
「ごきげんよう、薔薇さまがた」「ぎゃっ!」
 ごん。
 直撃だった。
 ちょうど扉を開けようとしたあの少女が私の引き戸を勢い良く引っぱった扉に体勢を崩して扉に頭をぶつけてしまったことも。
「紅薔薇さまともあろう方が何をしておられるのでしょう?」
 私の後から来た耳元で髪を綺麗にロールした少女が座り込む紅薔薇さまを馬鹿にしたように見下ろしているのも。
 ぜんぶ偶然の産物だった。
 だから・・・。
 私は別に紅薔薇さまに先制攻撃するつもりはなかったのよ?

 藤堂の家の玄関からバス停までの帰り道は少し距離がある。藤堂志摩子は、おかっぱの少女を案内しながら、かける言葉に戸惑っていた。
「何も聞かないのね」
 ぽつりと言葉がこぼれる。乃梨子さんが驚いたように志摩子を見上げる。
 口に出して志摩子は自分がずっと誰かに聞いて欲しかったんだということに気が付いた。
「私がお寺の娘で、それなのにリリアン女学園に通っているという矛盾について」
 苦しかったのだ。
 ずっとこのままひとりなんだと思っていた。
 辛かった。
 誰も彼にも嘘をつきつづけてきた。
 親友と思う人とも胸を張って並び立つことができないことに、苦しんできた。
 だから、こうして、なんのしがらみなく語り合うことができる人に出会えて、志摩子は本当に嬉しかった。
「乗って」「私、言いませんから」「え・・・?」
 バスに乗り込む直前、乃梨子さんが告げた。志摩子の手を両手で強く握って、意志ある瞳で志摩子の心を覗き込むかのように。
 そのまっすぐな視線に志摩子はほっと救われたようなむず痒い気持ちを覚える。それはでも、どこかで感じた憶えがあって・・・。
『待ってるから』
 その言葉を告げたのは誰だったか。
「志摩子さん!」
 志摩子ははっと顔をあげた。
 乃梨子さんがバスの窓から叫んでいた。
 志摩子は大きく腕を振る。
 これからも続く悔恨の日々の中で、乃梨子の声が差しこんだ救いの光のように感じられた。
 だから・・・。


5.

 これは裁きの場だ。
 藤堂志摩子は彼女が右手を高く掲げ、手に持つ数珠を見て悟っていた。
 今まで志摩子が犯してきた罪を糾弾する。
 マリア祭の礼拝堂は、今、魔女を裁く断罪の場所に変わった。

 その日は朝から誰もが落ち着かなかった。
「乃梨子さん、薔薇さまがいらしてましてよ」
「はい?」
 二条乃梨子は意外な取り合わせに思わず固まった。
「ごきげんよう、二条乃梨子さん」「ごきげんよう」
「ごきげんよう、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)
 出向いた廊下には、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)が佇んでいたのだ。てっきり、わざわざ一年の教室まで訪れてくる薔薇さまといえば志摩子さんか、福沢祐巳さんかと思っていた乃梨子にとって、これは不意打ちだった。
 ショートカットで背の高いミスター・リリアンこと、支倉令さまがじろじろと乃梨子を品定めする。その一歩後ろに控えた黄薔薇の蕾も楽しそうに乃梨子を見つめていた。
 正直、なんて意地の悪そうな人たちなんだろうと思う。これが志摩子さんや祐巳さんだったら、きっと違う。
「なんでしょう?」
 つい語気が荒くなる。そんな突っかかるような言い方に黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)がまんざらでもなさそうな笑みを浮かべた。
「由乃、どう思う?」「よろしいのではないでしょうか、お姉さま」
 あえて、乃梨子をスルーして、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は妹に視線を向ける。黄薔薇の蕾(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)はそれだけでわかったように肯いて見せた。
 姉妹そろって無視かよ。
 思わず頭に来て乃梨子はこの黄薔薇姉妹を睨みつけた。
「それで、黄薔薇さまともあろう方がたが一年生の教室まで来て、いったいなんの御用でしょう?」
「おおっと、これは結構凶暴だ」「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)にはこれぐらいのほうがよろしいのでは?」「私は紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)も負けてないと思うけど」
 じろじろと珍獣でも見るように姉妹で話し合う姿に乃梨子はさじを投げた。
「御用がないようでしたら、失礼します」
「おっと、ご免。何か用かと言われたらね」「私たち、あなたを見に来たのが用件なの」
「なんでです」
「それはわかるでしょう?」
 黄薔薇さまはふふんと意地悪く笑う。
「もう、お姉さま。それでは苛めているようですわ」
 そのものだろ!
 乃梨子はこれ以上付き合えないとばかりに踵を返そうとした。そんな乃梨子を黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)が呼び止める。
「あなた、志摩子のことは好き?」
 黄薔薇さまからの問いに、乃梨子は迷わず頷いた。
「ええ」「そう」「・・・」
 満足そうに、黄薔薇さまが蕾と目を見交わした。
「それじゃ、がんばりなさい」「ごきげんよう」
 謎の言葉を残して、黄薔薇さまは片手を上げて立ち去った。
「いったい・・・」
 後に残された乃梨子がそれに気付くのは後の話だった。

「桃組、松組、椿組」
 呼びかける声に、はっとして乃梨子は列に並んだ。視線の先には黄薔薇、白薔薇、紅薔薇の3人の薔薇さまが並んでいる。乃梨子の椿組は紅薔薇さま、あの気さくな福沢祐巳さんだった。
 欲を言えば、志摩子さんが良かったな。
 視線が泳ぐ。その視線の先で目が合った志摩子さんがちょっと怒ったような表情をして見せた。慌てて正面に向き直った乃梨子の横で、人形のように表情の整った少女がまっすぐに乃梨子の視線の先、紅薔薇さまを見つめていた。視線が合うと祐巳さんはにっこりと笑いかけてくれる。ばつが悪くなって、乃梨子はその少女と顔を見合わせてうつむいた。
 儀式が続く。
 一歩、一歩。足を踏み出し、正面に立つ祐巳さんが笑顔で迎えてくれた。
「白薔薇さまじゃなくて、残念?」「いえ、そんなことは」
 祐巳さんが隣の志摩子さんを横目で見ながら冗談めかして尋ねる。乃梨子は少しだけ眉を顰めて見せた。くすりと祐巳さんが笑う。
「志摩子さんをお願いね」「・・・もちろんです」
 強く肯く。目の前で満足そうに祐巳さんが微笑んだ。
 三年生の美冬さまから祐巳さんがおメダイを受け取ると腕を伸ばして乃梨子の首に掛けようと・・・。
「お待ち下さい。紅薔薇さま! その子はおメダイを受け取る資格はありませんわ!」「へ?」
 祐巳さんの手が止まった。
 きょとんとした表情で、祐巳さんが声の主に顔を向けた。乃梨子も聞き憶えのある声につられて振り向いた。
 背筋が凍った。
 視線の先、新入生たちが輪を作っている。
 その中心には松平瞳子が勝ち誇るように腕を掲げていた。その手には乃梨子の見覚えある数珠が握られている。
「えっと、瞳子ちゃん?」
 訳がわからない、といった表情で祐巳さんが小首をかしげた。そして、ちらりと祐巳さんが黄薔薇姉妹と白薔薇さまに視線を投げ、微かに眉を顰めた。
「どういうことかしら?」
 祐巳さんが瞳子に問いかける。
「神聖な儀式のお邪魔をして申し訳ありません。紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)。でも、これ以上、見ていられなくなって」
 どことなく芝居がかった台詞に祐巳さんが首をかしげた。
「瞳子! いったいどう言うつもり!?」
 瞳子が薔薇さまに憧れているのは知っていた。その想いは特に尊敬する『祥子お姉さま』が継ぐはずだった紅薔薇に向けられていることもわかっていた。でも、こんな形で・・・。
 その時、乃梨子は気が付いた。
 瞳子はなんといった?
 神聖な儀式。そう。瞳子にとってマリア祭は神聖な儀式なんだ。だとしたら、その糾弾の矛先は。
 ちらりと視線を投げる。その先には真っ青になって震えている白薔薇さま、志摩子さんの姿があった。


6.

 福沢祐巳は蒼白になっている白薔薇さまロサ・ギガンティア、藤堂志摩子をちらりと横目で見て、事情を察した。
 志摩子さん、浮かれすぎ。
 つっこみは心の中だけで。確か、乃梨子ちゃんは仏像マニアだったから、思わず見せてあげたくて持ってきてしまったんだろう。秘密があるなら、そういうものを学校に持ってきちゃ駄目じゃない。でも、志摩子さん、天然だからなぁ。
 とりあえず、この場はまとめますか。
 安心させるように、祐巳は明るく問いかける。
「乃梨子さん、そのお数珠はあなたのものかしら?」
「いいえ、私のじゃありません」
 おお、言いきった。乃梨子ちゃん、押しが強いね。
「瞳子こそ、どうしてそれが私のものだって言えるの?」
「そ、それは、その・・・。乃梨子さんの鞄から落ちたのを見たからですわ!」
 ん? 瞳子ちゃんが苦しそうにこちらを見た。
 祐巳は小首を傾げながら問いかけた。
「乃梨子さん、確認するけど、それは乃梨子さんのものじゃないのね?」「はい」
 祐巳は瞳子に目を向けた。
「瞳子さん、それは誰かの落とし物なのね?」「ええ。乃梨子さんのものに間違いありませんわ!」
 瞳子ちゃんが強く言いきる。
「それでは、紅薔薇である私が預かります。この数珠が自分のものだという方は、後ほど私のところに取りに来てください」
 さぁ、と促すように、瞳子ちゃんに手を伸ばす。
 迷うように瞳子ちゃんが祐巳の手に数珠を乗せようとして、それを横から祐巳よりもしっかりした腕が横からかっさらった。
「紅薔薇さまの手を煩わせるまでもないよ。持ち主がいないんだから、捨ててしまってもいいんじゃないかな?」
 令さま、首謀者はあなたですか!
 振り向いた祐巳の視線の先で、黄薔薇さまは数珠を目の前でひらひらと振って不敵な笑顔を浮かべて見せた。
 う、さすがミスター・リリアン。悪役ぶりも格好いいじゃないですか。

 助かった。
 乃梨子の前で祐巳さんが瞳子から数珠を預かることで話しをまとめて見せた。
 さすが、紅薔薇さま。普段は明るいだけの能天気な先輩だと思っていたけど、なかなかどうして、頼りになるじゃないですか。
 あとは乃梨子が祐巳さまのところに受け取りに行けばいい。
 安心した乃梨子が志摩子さんに小さく肯いて見せたときだった。黄薔薇さま、支倉令さまの声が響いたのは。
「持ち主がいないんだから、捨ててしまってもいいんじゃないかな?」「えっ!!」
 思わず、乃梨子が叫んだ。その様子に黄薔薇さまが楽しそうに数珠を手元でもてあそぶ。
「あなたがこの数珠の持ち主でないのなら、どうなったって構わないんでしょう?」「・・・数珠が踏み絵ですか」
 苦い気持ちで乃梨子は唇をかみしめた。ちらりと志摩子さんの様子を伺う。もう、今にも倒れそうな表情だった。乃梨子はその隣に立つ祐巳さまに助けを求めるように視線を向けた。だが、そこでは、祐巳さまが何かを量るかのように宙を睨んでいる。そして、乃梨子の視線に気が付くと、うわっ、露骨に腕を組んで考えてる振りをして視線を逸らしてくれやがりましたよ。
「あ、あの紅薔薇さま」「白薔薇さまはいいのよ」
 口を開こうとした志摩子さんを祐巳さまが優しく遮った。でも、きっと志摩子さんにはその優しさが辛いはず。
「わかりました。認めます。その数珠は確かに私の持ち物です」「乃梨子!」
 思わず、志摩子さんが飛び出してくる。その姿に、祐巳さまが背後から微笑んだ。
 ・・・あれ?
 乃梨子の物問いたげな表情を見たのか、祐巳さまは慌てて一歩下がって黄薔薇さまに譲る。
 あれ?
 替わりに楽しげな黄薔薇さまが一歩進んだ。
「でも、あなたはさっき、この数珠の持ち主ではないって言ってたわよね。今も、自分の持ち物であることは認めても、持ち主だとは言っていない。つまり、別に持ち主がいるんじゃないかしら」
 ちっ、気付きやがった。
 乃梨子は心の中で舌打ちする。
「志摩子さん、ごめん」
 腕の中でびくりと震える志摩子さんに一言謝って乃梨子は楽しそうにこちらを見下ろす黄薔薇さまを睨んだ。
 ・・・あれ、あれ?
 祐巳さまがなぜか黄薔薇の蕾に押さえつけられてるし。
「その数珠は・・・「それは私のものです!」」
 少し疑問に思いながら、乃梨子が口を開こうとしたとき、腕の中の志摩子さんが耐え切れなくなって叫んだ。
「あちゃぁ・・・」
「白薔薇さま、いったいどう言うことかしら?」「志摩子さん」
 志摩子さんが一歩進み出る。その姿はまるで自らの罪を告解するようだった。そんな志摩子さんの前に、柔らかな笑顔を浮かべた祐巳さまが立った。
「志摩子さん、話してくれるかな?」
 祐巳さまが手を差し伸べる。志摩子さんが両手で祐巳さまの手を抱きしめた。聖堂の中、その姿はまるで天使に祈りを捧げるマリアさまのようで、仏像一筋の乃梨子もちょっとくらりと来てしまいました。


7.

「それでは、皆さん、白薔薇姉妹の麗しい姉妹愛に今一度盛大な拍手を!」
 黄薔薇さまの言葉が、マリア祭の山百合会の出し物の終わりを伝えた。その後は、まだ、興奮覚めやらぬ淑女たちにおメダイを渡して、今年のマリア祭は一段落付いたのだった。
「うう、みんな酷いよ。結局、知らなかったの私だけ?」
 福沢祐巳は薔薇の館のテーブルに突っ伏した。
「だって、祐巳さんに教えたら、絶対、志摩子さんに話しちゃうでしょ」「うう、そんなこと・・・」
 力なく言葉が途切れた。確かに祐巳がこのマリア祭の話しを聞いていたら志摩子さんに黙ってなんていられなかっただろう。
 隣の席に座る志摩子がそっとテーブルの上の祐巳の手を握る。
「祐巳さん、知らなかったのは、一緒だから」
「志摩子さんは騙される側だよ・・・」
 騙された側の人たちにまで慰められる始末に、祐巳はさらに落ちこんだ。
「でも、瞳子まで、いつの間に」
 乃梨子ちゃんが当たり前のようにテーブルに座って優雅に紅茶を飲む松平瞳子ちゃんに問いかけた。瞳子ちゃんはつんとそっぽを向く。
「瞳子は祥子お姉さまから、協力して欲しいって言われましたの。今の山百合会に演技ができる人が少ないからって」「祥子さままで・・・」
「まぁまぁ、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんに人を騙す役は無理だってみんなわかってるし」「そうよ。祐巳さんじゃ、百面相ですぐにわかってしまうわ」
 令さまと未冬さまが仲良く言葉をそろえて慰める。それで、祐巳はぴんと来てしまった。祐巳を外して学外の祥子さままで動かした首謀者の影に。
「お姉さまですね」「「「「・・・」」」」
 沈黙は時に能弁だ。祐巳は今、自分の口元が自然に笑みを浮かべるのを感じた。
「ふふふ、お姉さまったら、あれだけ大丈夫だって言ったのに」
 まだ、教育が足りなかったかなぁ。
 晴れやかに見まわす。誰もが見てはいけないものを見てしまったかのように視線を逸らした。
「まぁ、蓉子さまも祐巳ちゃんのことが心配なのよ」
 勇気を出して、とりなすように令さまが声を掛ける。もちろん、祐巳もそれを否定するつもりはないのだ。
 ただ、ちょっと・・・。
「過保護なんだから」
 微笑む。
 冷静沈着な蓉子さま。祐巳のお姉さまは、そう、ちょっと心配性なだけなんだ、と、思う。毎日の中に潜む寂しさはきっと消えないけれど、こうして心が暖かくなれるのは、きっとそれでも大切な人を想い、想われているから。
「みんな、お疲れさま」
 だから、笑っていよう。
 思い出すその場所がいつも素敵な場所であるように。
 あの人の大切な想い出であり続けるために。
「これにて一件落着ってところね」
 由乃さんが時代がかった言い方でおどけて見せる。
「ええ」
 そう。これで、志摩子さんの悩みも解決。人手不足の山百合会は乃梨子ちゃんという人材を取りこんで、ちょっと、余裕ができるかな、って思ってたんだけど。

「せぃの、ごきげんよう、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)」「ごきげんよう、みなさん」
 お友達と一緒に挨拶をする一年生の子たちに笑顔で手を振って応える。マリア祭の済んだこの時期、山百合会幹部の顔は劇的に広がるから、こうして声を掛けられることも、どんと増えていくんだけど。
「まぁ、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だわ」「・・・」
 妙に視線が熱い、というか、痛いのは、どうしてだろう。
「ごきげんよう、祐巳さん」
 机に鞄を置いて、席に付く。そのタイミングにあわせてさっと武嶋蔦子さんが横に立った。
「蔦子さん、ごきげんよう。今日も早いね」「ええ」
 蔦子さんがにっこりと微笑む。ごきげんだ。昨日のマリア祭では写真部にカメラマンをお願いしたから、多分、いい写真が一杯取れたからなんだと思う。
「祐巳さん、今日はいろいろと注目されたようね」「え、ええ。毎年、マリア祭の頃には新一年生のみんなに顔が知れ渡るから」「・・・そう?」
 う、蔦子さんが意味ありげに笑う。それは、いったいどう言う意味なんでしょう。
「たぶん、祐巳さんの疑問には、これが応えてくれると思うわ」
 そういって茶封筒から大判の写真を取りだす。
「わっ、マリア祭の写真、もう現像したの?」「それはもう」
 嬉しそうに蔦子さんが写真を並べる。志摩子さんを守るように抱き抱える乃梨子ちゃんのアップなんかどうやって撮ったんだろうって疑問に思うけど。
「乃梨子ちゃん、男前だね」「そして、これが、最後」
 そう言って蔦子さんが最後の一枚を広げた。
「お題は、そうねぇ、『祈り』と名付けましょうか」
「いぃぃぃぃぃ!」
 祐巳は思わず奇声をあげる。そこにはお御堂のステンレス・グラスから差しこむ光の下、赦しを請うように見上げ手を伸ばす志摩子さんにそっと手を差し伸べた祐巳自身の姿があった。その姿はいかなる光の魔法か、まるで天使のようで。
 はっと顔をあげる。見下ろす蔦子さんが楽しげに目を細めた。
「紅白再戦。実は花嫁は白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)って話らしいわよ」
 新聞部にマリア祭の写真はもう渡したから。
 なんですとー!
 祐巳は当分リリアンを賑わせるだろう噂話に、思わず窓の外を見上げた。
 ああ、今日もいい天気だなぁ。
 ・・・マリアさま、一件落着じゃなかったんですか!?



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