薔薇の矜持
Code of Rose
ある日姉と二人で
1.
溜め息を一つついて、
紅薔薇さまこと、水野蓉子はテーブルを見回した。
薔薇の館の二階にある会議室。
いつもの顔ぶれがそろったテーブルに蓉子はもう一度溜め息を洩らす。その様子にテーブルについていた薔薇さまがたや蕾たちが互いに目を見交わしていた。
原因はわかっている。
だが、問題は誰がその口火を切るか。
「ちょっと
紅薔薇さま。あまり辛気くさい顔しないでいただけるかしら」
互いに牽制し合う視線を、あっさりと無視して
黄薔薇さまが告げる。その表情はいつになく楽しげであったが。
「あなたは面白みのない面立ちなんだから、そんな表情していたら、まわりに迷惑じゃない」
蓉子の端正な面立ちを面白みがないと言いきってしまう黄薔薇さまの態度に、誰もが紅薔薇さまの怒りを予想した。
しかし、蓉子はちらりと
黄薔薇さまに視線を投げると静かに答える。
「あら、そう? ごめんなさいね。今日はどうしてか、黄薔薇さまをきっと飽きさせない娘が来ていないものだから」
さぞかし退屈でしょうね、と言わんばかりに肩をすくめる。それでも、
白薔薇さまへの皮肉を忘れないところはさすがだ。
うへっとばかりに
白薔薇さまが身を縮める。
「そうね。でも、大切なことはそれだけじゃないでしょう?」
そう告げて
黄薔薇さまが
白薔薇さまに視線を送る。蓉子も同意するように同じ方に視線を向けた。
集まる視線に
白薔薇さまは居心地悪そうに肩をすくめた。
「悪かったわよ。でも、私がいま出ていったら、逆効果でしょう?」
「そうでしょうね」
蓉子はため息と共に志摩子を見る。
「すみません。祐巳さんをお誘いしようと思ったのですけど」
「人垣ができていて近づけなかったわけね」「はい」
志摩子も申し訳なさそうに身を縮めて謝る。容易に想像されたことだった。昨日は紅薔薇さまである蓉子自身が迎えに行き、帰り際にはあの白薔薇さまがスキンシップに励む。特に去年のあの事件を噂ででも知っている上級生にとっては、白薔薇さまの態度の変化に一つの予兆を感じても不思議ではなかった。
でも、大切なことはそんなことではない。
ただでさえ過剰なスキンシップを図る上級生のいる薔薇の館という近寄り難い場所に、同級生との対立を騒がれてしまった普通の少女が来てくれるとは蓉子にはとても思えなかった。
「ほんとに困ったわ」
蓉子は深くため息をつくと窓の外に視線を投げた。
梅雨の合間の青い空は、蓉子の気持ちも知らぬように晴れやかだった。
周囲を笑顔を浮かべ興味津々に問いかける乙女達に囲まれて、福沢祐巳は窮地に立たされていた。頼みの桂さんも率先して質問する側に回り、孤立無縁。救援の当てもない。
「まぁ、それで
紅薔薇さまが?」
「え、ええ。そうですの」
おほほほほ。周囲に合わせて笑顔を浮かべる。
頑張ったわね、祐巳。
自分で自分をちょっとだけ誉める。ついでにちょっとだけ桂さんにじと目を向けて。
次々と放たれる問いになんとか事情を説明し、やっと一息つけるかと思った時、その質問が来た。
「それで祐巳さんは白薔薇さまのこと、どう思ってらっしゃるのかしら?」
ただのセクハラ親父?
思わず素で答えそうになった自分を押し止める。あの学校新聞リリアンかわら版を読んだ時、予想していなければきっとそうぶっちゃげてしまいそうだった
「そうね。それはぜひ多くの生徒にも知らせるべきことだと思うわ」
落ち着いた声が人垣の背後から聞こえた。
「えっと・・・?」
眼鏡をかけ、ポニーテールのすらりとした知的な面立ちの上級生が自然と道を開けた人垣を通りぬける。その上級生の後ろには少し申し分けないような表情をした73分けの同じ学年ぐらいの少女が手にメモを持ってついてきていた。
「ごきげんよう、福沢祐巳さん。私は新聞部二年の築山三奈子。
リリアンかわら版の編集長と言った方が通りがいいかしら」「へ?」「私は新聞部一年の山口真美です」
祐巳は思わずぽかんとしてしまう。頭の中は真っ白だった。
えっと、リリアンかわら版というと・・・アレだ。今日の騒動の・・・。
「ええええ!? えっと、そのなんでしょうか?」
「あらあら」
美奈子さまは少し勝ち誇ったように祐巳を見下ろす。
「新聞部は真実の報道をモットーとしているの。だからね」
勿体つけたように美奈子さまが微笑んだ。
「渦中の人にインタビューを、ね」
祐巳は助けを求めて周囲を見まわす。でも・・・。
ああ、マリアさま。なんで、みんなこんなに楽しそうなんでしょう。
祐巳は腕を取られて立ち上がった。
連行される宇宙人って、こんな感じなのかな?
2.
正直、しまったと思った。
武嶋蔦子は目の前を新聞部に連行される祐巳さんを見送る。
一声掛けておけば。そう、悔いても遅い。
想像してしかるべきだった。こんな格好のネタを新聞部が見逃すはずがない。
しかし、薔薇さまがたは鉄壁。志摩子さんについては薔薇さまが釘をさしている。と、なれば、まだマークの甘い祐巳さんが狙われるのも当然と言えた。
蔦子はさっと席を立つ。
素直に言おう。
私、武嶋蔦子は福沢祐巳に惹かれている。
出会いの理由も思いだせない。そんなささやかな偶然の中で、蔦子はいつしか祐巳さんの姿をカメラで追っていた。
歩き出す。行き先はひとつ。
蔦子にはわかっていた。
今、自分が新聞部に乗り込んでいっても、祐巳さんを助けだすことはできない。
だから、蔦子の取ることができる手立ては、助けだせることができる人を呼びに行くことだけだ。
今は、まだ。
ぎゅっと、拳を握る。自然と駆け足になりそうな焦る心をぐっと抑え込む。
蔦子はいつも首にぶら下げていたカメラすら忘れて、いつしか駆けだしていた。
雨が降る。
放課後まで晴れあがっていた空は、今は暗い雲に覆われている。ひとときの梅雨の晴れ間は、先ほどから静かに振りだした雨に姿を変えていた。
薔薇さまがたもそれぞれの用件で席を立ち、今は薔薇の館には藤堂志摩子だけしかいない。
書類のチェックを終えて、薔薇さまがたの帰りを待つ。その少しの時間、志摩子は静かに降り続く雨を見つめた。いつもの梅雨空だと思う。でも、志摩子は確かに降り注ぐ雨に冷たいばかりではない夏の気配を感じていた。
季節が変わる。
この雨が上がれば、夏が来る。
しっとりした雨を吹き飛ばすようにからりとした陽気がやってくる。
そして、志摩子は思うのだ。薔薇の館には一足早く夏が訪れたと。
夏の妖精。
彼女の訪れと共に、薔薇の館のどことなく淀んでいた空気がからりと晴れ渡っていくように志摩子には思えた。
不思議なひとだ。
誰も彼もが変わっていく。彼女と一緒にいると等身大の自分に気がつく。自分が当たり前の自分として、彼女と接することができる。
まるで、偽りという重い外套を脱いだように。
ふと、階段を昇る足音に気がつく。
ああ、この足取りは
白薔薇さまだ。
志摩子はそっと立ちあがると流しに立った。
ちょうどよかった。
志摩子は紅茶の準備をして待つ。
今まで紅薔薇さまに引きずられて、ずるずるとここに長居してしまったような気がする。
ビスケットのようと彼女が称した扉が開く。そこから姿を現す
白薔薇さまを志摩子は自然と迎えることができる。
旅立つときが来たのかもしれない。
志摩子は
白薔薇さまを前に彼女のことを思った。
3.
紅薔薇さまこと水野蓉子は少し遅れたかと左手の時計にちらりと視線を落とした。薔薇の館はいつもの通り静かだ。
古びた階段を昇り、会議室の扉を。
そこで蓉子は笑みをもらした。
「この扉をビスケットに例えるなんてね」
赤いダイヤ、黄色い四角。ああ、確かに。慣れすぎた目にはただの扉としか見えなくても、ここには確かに幻想の扉がある。
蓉子はノブに手を伸ばした。
「私、そろそろ失礼しようと思います」
それは志摩子の声だった。
蓉子はその言葉に意外さよりも納得を感じていた。
ここ数日、志摩子はなにか考えることが増えていた。それは物思いにふけるといった感じではない。たぶん、あの福沢祐巳という少女の存在が志摩子にきっかけを与えたのだ。
だが、以前と違い、蓉子はなぜか志摩子を引き止める気にならなかった。
失うのは惜しいと思う。薔薇の館に有為な人材だとも思う。
しかし、思うのだ。
聖が決断しなかった。志摩子は意思を固めた。
そう言うことなのだと思うから。
「ごきげんよう。少し遅れたかしら」
だから、自然な気持ちで扉を開く。
流れる風に、夏の気配を感じたと思った。
薔薇の館の2階の会議室に戻った
白薔薇さま、佐藤聖は流しに立つ少女の姿にほっとした。
どうしてここまで惹かれるのだろう。
その答えをうすうす察しながら、聖は繰り返し思う。栞とは違う。それでも感じるシンパシーに聖は安心を覚えていたのかもしれない。
「どうぞ」「ありがと」
かちゃりと定位置に座る聖の前に湯気を立てる紅茶が置かれた。聖はぎこちなく礼を告げると一口含む。どうも二人きりになると自然に振舞えなくなってしまう。その点、あの福沢祐巳という少女は弄りがいがあって、聖は久しぶりに愉快な日々を送っていた。
だから、志摩子が発した言葉にとっさに反応できなかった。
「私、そろそろ失礼しようと思います」
イマ、シマコハナンテイッタ?
思考が固まった。言葉の意味は理解できる。それは薔薇の館での手伝いを辞めるということだ。
「なんで?」
かろうじて問いかける。
志摩子がゆっくりと席に座る。
「ここにいることに、私は満足していました。誰かに必要とされていることに私は安住していました。でも、気付いたんです。私はなにか大切なことを忘れているんじゃないかって」
「大切なことって、なによ!?」
思わず声が高ぶる。聖は信じていた。今の安らぎを志摩子もきっと共有していると、そう思っていたのだ。でも、志摩子は気付いた。聖はそれが何か気付けなかった。
「志摩子!」「ごきげんよう。少し遅れたかしら」
声をあらげる聖を遮るようにドアが開く。
タイミングを計っていたな、と聖は入ってきた
紅薔薇さまを睨みつけた。
「いいえ。お茶を入れます」「ありがとう」
志摩子が立ちあがる。蓉子は聖の視線をどこ吹く風と平然と礼を言って席に座った。
「ちょっと
紅薔薇さま。あなたも人事じゃないでしょう?」
聖は蓉子に振る。そうだ。もともとは蓉子が強引に志摩子を巻きこんだのではなかったか。
「なにかしら?」
素知らぬ振りで蓉子が首を傾げた。その澄ました仕草が腹立たしい。その前に志摩子が紅茶を置いた。
「
紅薔薇さま、私は薔薇の館でのお手伝いをやめさせていただこうと思います」
「そう。残念だわ」「蓉子!」
あっさりと肯く蓉子を聖は信じられなかった。そもそもは紅薔薇さまが・・・。
「もともと無理を押してお願いしたのだもの。仕方がないわ」
「では――」「でも、志摩子。あなたが見つけたものは、今の薔薇の館でなら手に入れられるのではないかしら?」
「・・・」
志摩子がはっと紅薔薇さまを見た。聖の理解していない何かを、蓉子は識っているようだった。
「聖の妹になれとは言わない。でも、今の薔薇の館で手伝いをすることは、嫌かしら?」
聖には蓉子が何を言っているのか理解できない。志摩子がなぜ蓉子の言葉にためらうのかも。
ただ何か、聖が見落としている何かを、志摩子が見つめている。それはきっと、聖自身も知っていることだった。
「私たちの手伝いは楽しくないかしら?」「いいえ!」
志摩子が首を振って強く否定する。
聖はようやく気がついた。
そう。楽しかった。
毎日が楽しかったのだ。
それもすべては・・・。
階下で扉を叩く音が響いた。2階にまで響く乱暴な叩き方だ。
蓉子が立ちあがる。ちらりと聖と志摩子に視線を投げて。
だが、蓉子が応対に出る前に階段を駆け上がる音が響いた。そのあまりの慌て振りに聖は思わず志摩子と顔を見合わせた。
扉が手早くノックされる。答える暇もなく、扉が勢いよく開かれた。
「失礼します、薔薇さまがた。少しお時間をいただきたいのですが」
額にうっすらと汗を浮かべて、1年生らしき少女が彼女たちを睨みつけた。
4.
まいった。
新聞部の部室に連行された福沢祐巳は周囲の興味津々の視線に縮こまるよう椅子に座った。
正面にはあの新聞部の部長築山三奈子さまが、右手には真剣な表情の山口真美さんがノートを片手に祐巳の口元を見つめている。
取り調べ室ってこんな感じなのかな。
幸い祐巳は警察のご厄介になったことはない。できれば一生なりたくないものだが、辺りを取り巻く緊張感にいつもの締りがないと言われる笑顔もこわばる。
ああ、いったいどうなってしまうのか。
そんな祐巳の態度に、正面に座った三奈子さまが吹きだした。
「もう、祐巳さん。そんなに緊張しなくても、取って食べたりしないわよ」「え、あの、その・・・」
そんなにわかりやすいのだろうか。
祐巳はがっくりと肩を落とした。その姿についには真美さんまで肩を振るわせて必死に笑いを押し殺す。
「真美さんまで・・・」「ご、ごめんなさい。でも、ちょっと」
「はいはい。いつまでも笑ってないで。ほら、雨も振りだしちゃったから、さっさと始めるわよ」「はい」
「お手柔らかに」
思わず、祐巳の口から諦めの言葉がこぼれた。
武嶋蔦子と名乗った一年の少女は
白薔薇さまと藤堂志摩子を一瞥すると水野蓉子にきっときつい視線を向けた。
「私のクラスの福沢祐巳さんが新聞部に連れて行かれました。
紅薔薇さま、よろしければ新聞部の誤解を解いていただけるようお力添え願えませんか」
三年の上級生、しかも、学園を象徴するといわれる薔薇さまに向かって、蔦子さんが挑むように言い放つ。その姿に蓉子は感心すら抱いてしまう。
「そう。わかったわ。でも、それにはもっと適任者がいると思うのだけど」
蓉子はちらりと
白薔薇さまに視線を投げる。
「駄目です」
断言された。蔦子さんは視線を向けるのももどかしいように訴える。
「
白薔薇さまが妹を選んだというのならともかく、今、
白薔薇さまが出ていっても話になりません。そもそも、祐巳さんが薔薇の館に来るようになった経緯すら、新聞部はわかっていないのですから」「そう」「・・・」「・・・」
蓉子は口元に手を当てて少し考えた。そして、振り向く。
「
白薔薇さま、あなたのその体たらくで、祐巳さんが迷惑を蒙っているのよ」
突き付ける事実。
これで駄目なら、仕方がない。蓉子はあの少女にかけていた様々なものを捨てようと、思った。
「行きましょうか。三奈子さんも無体なことはしないわ。少し、そう、想像力がたくましいだけで」
二人を置いて会議室を出る。
さぁ、これが吉と出るか、どうか。
蓉子ははやる蔦子さんをあしらいながら、ゆっくりと階段を降りた。
扉が閉まる。
「まいったわね」
佐藤聖は
紅薔薇さまの視線の意味に気がついていた。困惑している志摩子に聖は説明する。
「蓉子は祐巳ちゃんを手放すつもりよ」「え!」
聖は頭を掻いた。
怖かった。触れあうことが、のめり込んでしまうことが、その結果、栞を失ったことが、辛かった。
繰り返さないように、失うことのないように、ただ、そっと見つめていた。それで幸せだと信じていた。
でも、祐巳ちゃんと触れあうことは楽しかった。毎日をこんな楽しい日々で過ごせるのなら、つまらなかった学生生活も悪くないと感じていた。
たぶん、それは志摩子も一緒だったんだろう。だからこそ、志摩子は山百合会を離れようとしていた。彼女の居る教室に帰ることで、楽しい毎日を、日々を生きることを求めたんだとわかる。
なんて不器用な私たち。
散々回り道をして大切なことに気付かされるのはいつも他人の優しい一押しだった。
聖は右手のロザリオを外した。
「志摩子、来て!」「はい」
繋ぐ手。
首に掛けるには重すぎる。でも、この手と手を繋ぐなら、ロザリオの重みは確かな絆を感じさせてくれた。
駆けていく二人の背中を見送って蓉子は口元の笑みを押さえるように零した。
「まったく世話が焼けるわね」
本当は注意しなくてはいけないんでしょうけど。
蓉子は立ち止まると、窓に映る雨の景色に視線を送る。先ほどより小雨になりつつある。空も明るい。きっと、帰る頃にはまた晴れるかもしれない。
ああ、これできっと全てがうまく行く。
今はそんな気持ちで胸がいっぱいだった。
あとは・・・。
蓉子は振りかえる。
そこには目を怒らせた眼鏡の少女が蓉子を睨みつけていた。
新聞部は突然の来訪者の姿に大騒ぎだった。
話題の人たちが姉妹の契りを交わしての登場となると、どんな注目もまず彼女たちに向けられる。
祐巳は
白薔薇さまが彼女に小さくウィンクするのを見た。
ああ、助けに来てくれたんだ。
祐巳には
白薔薇さまが突然に現れたヒーローのように見えた。その傍らには志摩子さんの姿がある。祐巳の視線に気がついて微笑む姿は、前よりも自信に満ち溢れて、美しいと素直に思う。
祐巳はちいさく胸元で拍手する。自然と微笑みが零れた。
よかったね、志摩子さん。
白薔薇さまと手をつなぐ志摩子さんの姿を祐巳は笑顔で見守った。
5.
一件落着。
福沢祐巳はどこか満足そうに鞄に荷物を詰め込んだ。
掃除の終わった放課後の教室はどことなく騒然としている。部活に入っていない祐巳にとって今すぐ帰宅するには早い時間。桂さんは愛しい『お姉さま』の待つテニス部に急いでいった。
リリアンは上下関係に厳格なところだ。
体育会系の一年生は大変だ。そう言う意味で桂さんが早くに『
お姉さま』を得たのはいいことだと思う。
お姉さまのために、そう頑張れるのはこの時期の一年生にとって大切なことなんだろう。
今回の件で親しくなった武嶋蔦子さんは、今ごろカメラを片手に構内を徘徊しているに違いない。情熱と倫理と、蔦子さんを見ているとその微妙なバランスが悩ましい。
さぁ、帰ろう。
鞄を片手に久しぶりにゆったりとした気分で歩き出す。そういえば、ここのところ山百合会がらみの騒ぎでいつもてんやわんやだった気がする。志摩子さんが無事『
白薔薇の蕾』になったことで、もう祐巳にとばっちりが来ることはないと思う。
お役御免。
脇役の狸は馬に蹴られないよう、速やかに退場するのが一番だろう。
軽い気持ちで教室の扉に向かう。
帰ろう。
ここのところの騒々しさに別れを告げて。
さようなら、非日常。
ただいま、当たり前の日々。
きっとまた、いつもの毎日が私を待ってる。
あの夏への扉を抜けて、足取りも軽く・・・。
ガシっ。
・・・え?
「祐巳さん、遅い」「待ってたわ、祐巳さん」
扉を抜けた直後、両側から祐巳の身体ががっしりと固定された。
左を見ると島津由乃さんが祐巳の左腕を抱え込むように捕まえている。反対の肩には藤堂志摩子さんが優しく手を置いていた。
「あ、あのぉ」
祐巳はなにがなんだか理解できず、二人の顔を首を左右に見比べる。
「祐巳さん、駄目よ。ちゃんと花寺との連絡係として薔薇の館に顔を出さなきゃ」
あの、由乃さん、顔に似合わず積極的じゃ。
「ごめんなさい。祐巳さんを案内しないと紅薔薇さまに怒られてしまうの」
その、志摩子さん、手が優しく置かれているはずの肩が、なぜかびくともしないんです。
「「じゃ、行きましょう」」「えぇぇぇぇぇ・・・」
なぜか、そこだけ、息の合った二人に祐巳は薔薇の館に連行されていく。
ちらりと渡り廊下で蔦子さんの姿を見た。必死に助けを求めようとした祐巳は、蔦子さんがすごくイイ笑顔を浮かべてカメラを構えたことに心の中で叫ぶ。
ブルータス、お前もか!
心地よく親指を立てる蔦子さんの前を通り過ぎ、祐巳は梅雨明け空の鮮やかな青を仰いだ。
マリアさま! わたし、なにか悪いことしましたか!?